漢朝との外交
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 09:23 UTC 版)
南越国は紀元前196年に初めて漢朝への帰属を表明した後、対抗と帰順を繰り返し、紀元前111年に武帝により滅亡させられた。 南越国が初めて漢朝に帰属したのは紀元前196年に高祖により陸賈が南越国への使者として派遣され、趙佗が高祖の印綬を受けた時に開始し紀元前183年まで継続した。この時期は相互の政治、経済交流が耐えることなく続き、両国にとって大きな利益をもたらし、また交易により中原は南越国の特産を獲得し、南越国も中原の鉄器や馬牛等を確保することができた。この活発な交流の中でも、両国は国境沿いに防禦施設を建設し、兵力を配置していた。 南越国が初めて漢朝と対抗する姿勢を見せたのは紀元前183年に呂后が南越国との交易を禁止したことに起因し、紀元前179年まで続いた。この時期、趙佗は漢朝の支配を脱し、皇帝を称し、漢朝の諸侯であった長沙国を攻撃するなど対立姿勢を鮮明にした。呂后もまた南越国に軍を派遣するなど対抗し交戦が発生している。この対立の中、南越軍は漢軍の南下を阻止することに成功し、閩越や甌越(西甌)、駱越は南越国に帰属することとなった。 やがて紀元前179年、文帝は陸賈を再度使者として南越国に派遣し、趙佗に対し帝号の廃止と漢朝への帰順を促したことで再び漢朝に帰属するようになった。2度目の帰属期間は非常に長く、南越王4代、60余年に及んだ。この時期の南越王は、開国の趙佗以外は、比較的平庸な君主が続いたこともあり、漢朝との関係は密接なものとなった。第2代南越王の趙眜(趙胡)は閩越が南越に侵攻した際には武帝へ善後策を一任したことで、趙佗の時期に帰順させた閩越が、南越国から離れ、漢朝の直接支配を受けるようになり南越国の中国南方での孤立が生まれた。 紀元前112年、丞相である呂嘉が反乱を起こし、第4代南越王趙興(哀王)と生母の樛太后、漢朝からの使者を殺害する事件が発生すると再び漢朝との対抗の時代へと突入し、結局漢朝により滅亡されることとなった。この時期の漢朝は最盛期を迎えており、北方で匈奴を駆逐し充実しており、反乱から2年足らずで武帝が派遣した征討軍により滅ぼされてしまった。
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