漢字制限
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 09:28 UTC 版)
東京市の視学であり昆虫学者であった岡崎常太郎は、1930年に『テンネンショク シャシン コンチュー 700シュ』という、カタカナ書きの図鑑をあらわした人物である。彼は、1935年ごろ、服部報公会の援助を得て、漢字制限のための研究をおこなった。 まず、東京市の尋常小学校6年生848名、高等小学校1年生631名に、尋常小学校6年間で学ぶ1,356字の漢字の書きとりテストを受けさせた。その結果、彼は、義務教育で児童に身につけさせられる字数はおおむね600字であると結論した。 つぎに、1935年の60日分の新聞の政治面および社会面に用いられた漢字の異なり字数およびそれぞれの漢字の出現度数を調べた。その結果、彼は、出現度数の大きい500字の漢字が、漢字の出現度数のおおむね4分の3をしめることをみいだした。 そして、義務教育で児童に身につけさせられる字数はおおむね600字であること、出現度数の大きい500の漢字が、漢字の出現度数のおおむね4分の3をしめること、ライノタイプを使用するためには漢字を500種類に制限することが適当であること、を理由として、漢字の種類を500に制限することを提案し、その500字を選んだ。 彼は以上の研究成果を『漢字制限の基本的研究』(松邑三松堂、1938年)に発表した。この本そのものが、岡崎が選んだ500種類以外の漢字を使わずに書かれている。 松坂忠則は1927年にカナモジカイの本部員となった。彼は岡崎の研究の助手をつとめた。松坂は、漢字を岡崎が選んだ500種類に制限して、『火の赤十字』という小説をあらわした。彼は、野戦病院部隊に所属して中国にいるとき、みずからの経験をもとにこの小説を書いた。この小説は文藝春秋社の『話』1939年10月号にのせられ、第10回直木賞の候補作品となった。
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