湖の利水計画と治水問題の解決
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「1888年の磐梯山噴火」の記事における「湖の利水計画と治水問題の解決」の解説
長瀬川水系の豊富な水量と、桧原湖、小野川湖、秋元湖の標高の高さから、田健治郎は桧原湖、小野川湖、秋元湖を水力発電に利用できないかと考えた。田健治郎は1907年(明治40年)に長瀬川など阿賀野川水系に水力発電を目的とした水利権の申請を福島県に提出し、水力発電所の建設を計画した。田健治郎の計画では桧原湖、小野川湖、秋元湖には水力発電用の取水堰を設ける予定であった。 田健治郎の計画は福島県から許可を得ることに成功し、その後田が獲得した水利権は猪苗代水力電気の手に移った。1915年(大正4年)9月、猪苗代水力電気はまず桧原湖、小野川湖、秋元湖に水門と堰堤の建設を行う許可を福島県に申請した。水門と堰堤を設ける目的は、湖から流れ出す水量の調整を行って水害を防止することと、湖を水力発電用の貯水池として活用するためであった。福島県は1916年(大正5年)申請を許可したものの、長瀬川流域の灌漑組合や猪苗代湖の下流に当たる安積疏水の受益者などとの協定や、協定に基づく設計変更に手間取り、工事開始は1923年(大正12年)、完成は1925年(大正14年)となった。 水門と堰堤の完成に伴い長瀬川中流~下流域の水害は減少した。これは桧原湖、小野川湖、秋元湖からの排水量コントロールが始められ、その結果として上流部での浸食が抑えられたためと考えられている。またこの工事は各湖の貯水量を増大させることも目的のひとつであり、工事完成後、桧原湖、小野川湖、秋元湖の水位は工事前と比べて数メートル上昇した。 桧原湖、小野川湖、秋元湖の水門と堰堤の建設工事が始まった1923年(大正12年)、猪苗代水力電気は東京電灯に合併された。東京電灯によって小野川湖から取水を行い秋元湖北岸まで導水して発電する小野川発電所が1937年(昭和12年)に完成し、更に秋元湖から取水して名家まで導水して発電する秋元発電所が1941年(昭和16年)に完成した。発電所の建設に伴い長瀬川の流量は減少し、その結果として上流部での浸食は更に弱くなり、河川改修の進展もあって洪水も激減した。
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