浪人・日活向島撮影所時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/28 15:57 UTC 版)
1921年(大正10年)8月に松竹キネマ研究所は解散し、村田は製作費に糸目をつけず松竹の経済を圧迫した責任で辞任。東京シネマ商会で化粧品の宣伝映画などを作ったり、一日五円の日当てでカッティングや編集の仕事を引き受け、潰れかかった国活に入社して女形(日活向島を退社した衣笠貞之助が出演)を使った映画を撮ったりもした。1923年(大正12年)、近藤伊与吉の仲介で日活向島撮影所に入所するが、当初はつまらない脚本や売れない役者を押し付けられるなど不遇であり、近藤の回想によると初めて村田を見た本社の根岸耕一支配人に「あんな小さな男で監督が出来るかッ」と叱られたという。またこの頃は向島での仕事を終えると毎晩のように小石川博文館の長屋で開かれていた職工演劇(労働演劇)の指導に通い、後のプロレタリア作家徳永直が感謝の言葉を綴っており、社会主義者片山潜から村田に宛てた手紙が『新映画[要曖昧さ回避]』一九二三年七月号に掲載されている。
※この「浪人・日活向島撮影所時代」の解説は、「村田実」の解説の一部です。
「浪人・日活向島撮影所時代」を含む「村田実」の記事については、「村田実」の概要を参照ください。
- 浪人・日活向島撮影所時代のページへのリンク