浪人生活と豆腐座経営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/31 04:40 UTC 版)
「秋月種信 (商人)」の記事における「浪人生活と豆腐座経営」の解説
関ヶ原の戦いの後盛親は改易となり、種信は浪人となる。慶長六年(1601年)、山内一豊が新しい領主として赴任すると、彼は好仁たちの生活を保障し、諸役も免除するなど手厚い保護を加えた。 一豊は高知城の築城開始を機に好仁・種信父子とその従者たちを鏡川沿岸へと住まわせることとした。これが高知の唐人町のはじまりである 。 こうして山内家の転封後も好仁は扶持米をしばらく頂いていた。しかし凶作のため人民が困窮していたことを理由に、取締役の辻善兵衛が独断でこれ以上米を与えられないということを伝えると、好仁は怒って伊予の加藤嘉明のところへ出奔してしまった。一豊は使者を送り土佐に帰るように伝えたところ、好仁はさらに広島の福島正則のところへ逃げ込んだ。一豊は「好仁の思うとおりに扶持米を与える」という言づてを持たせて、種信を好仁への使者に立てようと考えたが、その場合好仁が種信を留め置いて戻さないのではないかと側近が懸念を示したため中止となった。好仁は朝鮮の役の際、長宗我部の陣屋で嘉明や正則に親切にされたことに恩義を感じていたという。好仁はその後正則から扶持や屋敷を頂いており、新たに子供二人を設けたが、元和三年(1617年)に刷還使に従って朝鮮に帰国した。 残された種信は唐人町で豆腐座の営業を開始する。これは城下では秋月氏にのみ許された独占販売だった。座は68以上設けてはならないという命が下るほどであったから、相当の規模の豆腐座が経営されていたことが伺われる。豆腐商は朝鮮風の傘をかぶって営業を行っていたという。 種信は 遠江国出身の遠江という女性をめとり、子孫は代々豆腐座の経営を続けた。その独占販売権は幕末まで続いた。 種信(秋月長左衛門)の墓は筆山の山内家墓地にある。
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