浦上氏の台頭と播磨奪回運動とは? わかりやすく解説

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浦上氏の台頭と播磨奪回運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/21 10:10 UTC 版)

赤松政則」の記事における「浦上氏の台頭と播磨奪回運動」の解説

赤松家再興する過程において特に功績高かったのは、政則の養育務めた浦上則宗であった。政則の年齢考えて再興前後政治命令大半則宗実際に出して執行していた可能性指摘されている。浦上氏嘉吉の乱以前からの赤松家重臣で、備前守護代や守護直属奉行人務めていた。浦上氏は政則没後赤松家下剋上倒しているため守護代典型と見なされているが、則宗場合単純な守護代ではなく守護直属奉行人として、つまりは実務官僚として赤松家中でその立場権勢高めていき、幕府からも山城守護代や侍所所司代任命されるなどしてその立場形成していったのである寛正3年1462年10月京都大規模な土一揆が起こると、則宗中心とする赤松軍は畠山政長協力して鎮圧功績挙げたため、戦後に政則は8代将軍足利義政より感状太刀与えられた(『長禄寛正記』)。寛正6年1465年11月山城西岡で土一揆が起こると、則宗京極氏協力して鎮圧貢献し、こうして赤松家幼少当主・政則を擁する奉行人浦上則宗の両体制確立していくことになる。同年12月26日、政則は義政の「政」の偏諱授かり元服する赤松家本拠播磨では、赤松家再興と共に赤松浪人動き活発化しだした寛正6年1465年6月12日には幕府がこの動き危険視し、罪科招きそうな播磨牢人衆の名前の注進山名宗全命じているほどで(『伊和神社文書』)、播磨国内における不穏分子、反山名勢力等結集され始めていた。 文正元年1466年)、細川勝元らにより義政近臣であった伊勢貞親禅僧季瓊真蘂斯波義敏らが政界追われる文正の政変が起こると政則も失脚したが、勝元支援を受けることで政界に復帰する。

※この「浦上氏の台頭と播磨奪回運動」の解説は、「赤松政則」の解説の一部です。
「浦上氏の台頭と播磨奪回運動」を含む「赤松政則」の記事については、「赤松政則」の概要を参照ください。

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