津・上野の攻防
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/05 15:13 UTC 版)
一揆隊が松阪に入った12月19日の夕方より一志郡三渡村(みわたりむら、現在の松阪市六軒町)を中心に農民が結集、一志郡のほか安濃郡の農民を巻き込み県庁所在地の津を目指して進んだ。ちょうどこの時、津方面への一揆の拡大を食い止めるために県の役人が一志郡久居(現在の津市久居地区)付近に来て対策を検討している最中であったため、久居の町は農民に制圧された。ここから農民らは津へ向かう主力隊と伊賀方面に向かう部隊に分かれた。 津では県令が内務卿・陸軍卿や各鎮台に打電・出兵要請をし、津防衛を固めた。対する数千人の一揆隊側には全県的な流れを把握し統一的に指導できる者がいなかった上、津攻略に農民は全力を傾けていなかった。このため津に入ることはできず、農民は敗退、久居へ引き返し、更に南下して権現野(現在の松阪市嬉野権現前町付近)に集結したが、時すでに遅く、12月22日午前に垣鼻村の海会寺野で一揆隊を撃破した士族と戦い、敗れた。これ以降、一揆隊は地租改正と少しでも関係する者の屋敷に、徹底的に打ちこわしや焼き払いを加えるようになる。 伊賀には12月19日に太郎生峠(たろうとうげ)・青山峠・長野峠の3方向から一揆隊が進入したが、津攻略に向かった隊よりも勢力は弱かった。一志郡久居方面を発し、太郎生峠から入った部隊は170から180人の集団であったが、周辺の村々の農民を巻き込みつつ、12月20日午前8時に名張郡梁瀬(現在の名張市中心部)に入り、学校と区扱所を焼き払った。一志郡久居方面を発し、青山峠から入った部隊は300人の集団であったが、伊勢地(現在の伊賀市伊勢路)で2隊に分裂したが、最終目標は三重県庁の上野支庁であり、1隊は直接阿拝郡上野(現在の伊賀市中心街)へ、もう1隊は名張郡梁瀬経由で上野へ向かった。梁瀬経由の部隊は太郎生峠を超えた部隊と合流、さらに直接上野に向かった部隊とも再合流したが、12月20日午後に大内川で上野支庁が派遣した士族と戦い敗走する。彼らは伊勢地や梁瀬に引き返したが、伊勢地に逃げた部隊は追撃され、梁瀬に逃げた部隊は迎撃され、伊賀での一揆は鎮圧された。安濃郡から伊賀に入った部隊は上野に向かうことなく、山田郡平田村で折り返し、鈴鹿郡加太(かぶと、現在の亀山市西部)方面に進んだ。
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