洞爺湖温泉名物「親子ゲンカ」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/23 02:39 UTC 版)
「浜野豊」の記事における「洞爺湖温泉名物「親子ゲンカ」」の解説
旅館業に全力を尽くすと誓った豊はそれまでの苦悩の日々がうそのように仕事にのめり込んでいった。下足番、風呂や便所掃除といった下働きも含め、あらゆる仕事をこなし駆けずり回った。こうした豊の働きぶりを見て、良き後継者を得たと確信した父、増次郎は、1949年(昭和24年)から10年間で2億円をつぎ込み、次々と増・改築を進めた。 その結果、万世閣は洞爺湖温泉随一の規模になった。反面、相次ぐ設備投資で経営を圧迫、経営スタイルも旧態依然としており、改善点は多々見受けられ、豊はこの経営方針に大いに不満をもった。 「今まではそれでやって来れたのかもしれないが、これからはそんな時代ではない。」豊は、昭和20年代後半から経営改革に着手した。まずは経理的改革。豊は今まで培ってきた仲間から優秀な人材を招き、経理部門の改革に着手し、増次郎の時代の「ドンブリ勘定」をきちんと整理することから行った。以降昭和30年代後半まで万世閣にとって世代交代の時期に当たる。 「経営改革」を急ぐ豊に対し、増次郎には実績と今までのやり方に自信もあっただけに、豊の打ち出す「経営改革案」とは事あるごとにぶつかった。ケンカの理由は、多数あったがその中でも新・旧交代という意味で象徴的であったのが「萬・万戦争」である。 昭和30年代後半から広告、宣伝に豊が力を入れ始めた。看板や広告に使うロゴマークに「萬」を使うか、「万」をつかうか、新しく「万世閣」とするか「萬世閣」とするか…結果的には社名を萬世閣とし、旅館、ホテルの関しては「万世閣」とすることで落ち着いた。しかし二人の喧嘩は「万世閣」の発展に付き、お互い仕事に対し、情熱と真摯な姿勢で取り組んでいたからにほかならない。 父・増次郎の死後、父の名に敬意を評し「2代目浜野増次郎」を名乗ったり、父・増次郎も経営者の座を息子豊に譲り悠々自適な会長職に付きながら「せめて自分に出来ることを」と用度係の裏方に徹するなど2人の間には親子の深い絆があった。
※この「洞爺湖温泉名物「親子ゲンカ」」の解説は、「浜野豊」の解説の一部です。
「洞爺湖温泉名物「親子ゲンカ」」を含む「浜野豊」の記事については、「浜野豊」の概要を参照ください。
- 洞爺湖温泉名物「親子ゲンカ」のページへのリンク