河港時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 07:02 UTC 版)
6世紀頃の 難波津(なにわづ)、住吉津(すみのえのつ)といった海港は、やがて淀川が運ぶ土砂の堆積で衰退してしまい、平安時代から鎌倉時代には、 淀川左岸の渡辺津(わたなべのつ)と呼ばれる河港に姿を変えた。安土桃山時代から江戸時代には、豊臣・徳川の両政権によって「天下の台所」と称される水運の発達した大坂市街が形成されたが、この時代の大坂は海に面さない内陸の街だった。 茅渟の海と呼ばれていた大阪湾から大坂市街へは、淀川水系の河川を数km遡上する必要があり、北前船や菱垣廻船といった大型船は市内まで入らず淀川や木津川などの下流部や河口に停泊し、そこから小型船で貨物を運搬していた。船が市内へ上れるよう、また洪水を防ぐため、河川の改修や浚渫は江戸時代を通じて行われた。1683年(天和3年)には河村瑞賢が、曲がりくねって浅い淀川の水運と治水のため、九条島を二つに割いて安治川を開削。次いで1699年(元禄12年)には木津川の流路も難波島を二つに割いて航行をスムーズにさせ、安治川と木津川は二大水路として繁栄した。 大坂城の北で淀川に合流していた大和川は、ひとたび氾濫すると河内低地が水没するなど甚大な被害を出していたが、1704年(宝永元年)に河内郡今米村庄屋の中甚兵衛らの尽力によって、堺の北で大阪湾に出るよう付け替えられた。大和川が淀川水系から切り離され、土砂の流入は半減したが、しかしなおも土砂で川が浅くなり続けたため、1831年(天保2年)には再度安治川の浚渫が行われた。この時に出た土砂により、天保山が築かれている。また、河川の改修と並行して新田開発が盛んに行われた。 1868年(慶応4年)7月15日の大阪開港に際しては、川口外国人居留地の西隣、安治川左岸に位置する富島が開港場となった。しかし、安治川を河口から約6km遡上する富島まで大型船は入港できず、国際港機能は次第に神戸港へ移り、1872年(明治5年)を最後に外国船は大阪に入港しなくなった。
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