河原土工森林組合を設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 14:33 UTC 版)
「岡崎森林組合」の記事における「河原土工森林組合を設立」の解説
1921年(大正10年)、旧河原村地域において、山本源吉を中心に75名でもって「河原土工森林組合」が設立される。1934年(昭和9年)に宮崎地区で「中部土工森林組合」が設立され、1941年(昭和16年)には河原と中部が合併し「宮崎村森林組合(のちに宮崎森林組合)」となった。1962年(昭和37年)、旧形埜村と旧下山村ではそれぞれの組合が合併し「額田北部森林組合」となった。 1975年(昭和50年)3月15日、上記「宮崎」「額田北部」と「豊富森林組合」の三つの組合が合併してついに「額田町森林組合」が誕生した。1956年(昭和31年)9月30日の4村合併以来19年間も森林組合の統一が果たされなかったのは、組合間の規模の差と体質の差があったからと言われている。組合員所有の森林面積はほぼ同じであったが、活動内容においては宮崎と他の2組合との間に大きな差があった。合併前年の出資金額は宮崎3,312万9000円に対し、額田北部250万円、豊富137万6000円であった。また、宮崎は独自の製材工場を持ち10名の常勤職員と作業班を組織して活動していたが、他の2組合は職員2名で植林用種苗斡旋や造林補助金の申請事務が主な仕事であった。資産の面でも宮崎の2千数百万円に対し、額田北部と豊富はそれぞれ100万円ほどであった。 同年6月、森林組合の合併に伴って町ごとの林業クラブも一つになり、額田林業クラブが設立された。林業を基幹産業として順調に発展していくが、1964年(昭和39年)に木材の輸入が全面自由化されて以降、とりわけ宮崎地区は収入が激減した。 なお額田林業クラブは2017年(平成29年)2月27日、平成28度全国林業グループコンクールにおいて林野庁長官賞を受賞している。
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