河原井沼・昭和沼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/09 22:33 UTC 版)
河原井沼(かわはらいぬま)は開発される以前、長さ35町(約3.8km)・横16町(約1.7km)の広大な沼であった。河原井沼は上流からの悪水が落ち込む場所であるとともに、下流域では水源となる溜井の役割を果たしていた。当時流入していた主な河川としては古笊田堀・五ヶ村堀・外谷落・大蔵落であり、流出先は備前堀・庄兵衛堀川・爪田ヶ谷堀などであった。 1728年(享保13年)に見沼代用水の開削により豊富な水源の確保が可能になると、河原井沼や周辺の湖沼での新田開発が本格化した。河原井沼では1728年(享保13年)、井沢弥惣兵衛の指揮のもとに太田袋村の武助が出願人となり、主に周辺の台村・江面村・除堀村・原村・下早見村・所久喜村の村民が工事にあたり、新田開発が進められた。工事は主に流入・流出先の河川・水路の整備から始まったが、低湿地であったために縦35間(約63m)・横2間(約3.6m)の堀を幾重にも掘り、掘った土を積み上げて掘り上げ田を作る方式で新田を開発した。これらの新田は河原井沼周辺の6ヵ村に分配された。これらの新田は武助新田を除き幕府の天領として幕末まで維持された。 1966年(昭和41年)頃、この地域の工業団地造成計画が具体化し1977年(昭和52年)3月、9カ年を要し久喜菖蒲工業団地が整備され完成した。久喜菖蒲工業団地の造成時に現在の工業団地部分に盛り土をするため、河原井沼地区の中央部を掘削し用土を確保した。このために生まれたのが現在の久喜菖蒲公園中央部に所在する昭和沼(しょうわぬま)である。
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