沖縄市長時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 15:53 UTC 版)
1978年、衆議院議員に3回目の立候補準備を進めていたが、自由民主党の沖縄県連の説得を受け、沖縄市長選挙への立候補することになった。元コザ市長であった大山朝常の支持も取り付けて、再選を目指していた現職の町田宗徳を破り、保守系として初の沖縄市長に当選した。 しかし、市議会は桑江支持の保守系議員は過半数割れで少数与党、加えて市職員労働組合が桑江の即時辞任を要求して対決姿勢を鮮明にした。労使協議を重ね、1981年10月に労使共に争訟案件を全て取り下げることで合意した。 1982年4月、沖縄市長選で再選。1986年5月、3選。 1987年3月、泡瀬干潟の埋め立てを含む「東部海浜地区埋立構想」を策定する。西側に嘉手納基地、北側に嘉手納弾薬庫に土地を切り詰められているため、市としての開発空間を泡瀬海岸の拡張に求め、当初は239.5haの広大な埋め立て計画であり、以後、市内外で大きな議論を生むこととなった。 1990年、4選目を目指して沖縄市長選挙に立候補したが革新派の推薦を受けた新川秀清に敗れた。桑江は3期12年間、沖縄市の市長を務めたが、市長時代の主な業績は、第42回国民体育大会(海邦国体)の秋季メイン会場の誘致、沖縄市役所総合庁舎の建設、沖縄職業能力開発大学校の誘致である。
※この「沖縄市長時代」の解説は、「桑江朝幸」の解説の一部です。
「沖縄市長時代」を含む「桑江朝幸」の記事については、「桑江朝幸」の概要を参照ください。
- 沖縄市長時代のページへのリンク