沈周、文徴明と呉派とは? わかりやすく解説

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沈周、文徴明と呉派

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:09 UTC 版)

中国の絵画」の記事における「沈周、文徴明と呉派」の解説

呉派の祖とみなされる沈周しんしゅう、1427 - 1509年)は蘇州府呉県相城里の人。字は啓南。石田せきでん)と号し別号白石翁といった。沈家代々名家で、父の沈恒、伯父の沈貞も画家であり、沈周は父を継いで糧長(徴税官)の地位にあった。ただし、所伝のとおりとすると数え年15歳で糧長に就任したことになり、実際に彼が徴税業務行ってたかどうかは疑問視されている。絵は董源巨然元末四大家のうちの黄公望呉鎮学んでいる。 明代代表する画家文化人である文徴明(1470 - 1559年)は、曽祖父の代から蘇州定住していた名家出で、父は温州知府務めた。徴明は初名を壁または璧といい、徴明は字であったが、後に字を徴仲と改めた衡山、停雲生などと号する詩文書画のいずれにも通じ、詩は呉寛(1435 - 1504年)、書は李応禎(1431 - 1493年)に学んだという。絵は沈周師法し、元末四大家とりわけ王蒙倪瓚影響受けている。なお、沈周とは交流があり、影響受けたことは確かだが、師・弟子の関係であったかどうか定かでない画風平明で、淡彩淡墨擦筆好んで用いるが、晩年には作風変化し王蒙風の細かく描き込んだ余白少な画面になっている科挙10落ちた後、嘉靖2年1523年)、歳貢生として北京行き翰林院待詔任じられた。しかし、その3年後に辞職して帰郷し以後自適の生活を送って90歳で没した。子の文嘉(ぶんか)、甥の文伯仁ぶんはくじん)も著名な画家である。 沈周文徴明加え、陳淳(ちんじゅん)、陸治(りくち)、文伯仁、居節(きょせつ)など周辺画家含めた一派を、蘇州古名の呉をとって呉派呼んでいる。呉派は宋元以来文人画系列位置づけられ、浙派の行家(職業画家に対して呉派は利家(文人画家)とされている。画風的には浙派水墨濃淡主調とし、筆法粗放部分があるのに対し呉派水墨淡彩交えた技法主体とする。ただし、すべての画家こうした二分法納まるものではない。たとえば、理論家によって浙派、すなわち行家に分類されている呉偉士人の家の生まれであり、実際は利家であった。 陳淳(1483/1484 - 1544年) - 江蘇呉県の人。文徴明師事した写意的な花鳥よくした陸治(1496 - 1576年) - 呉県蘇州)の人。文徴明弟子山水着色花鳥画を得意とした。 文伯仁(1502 - 1575年) - 文徴明の甥。多く後継者出した文氏一族中でももっとも有力な画家とされる画面隅々まで白描風の墨線で細かく描き込んだ王蒙風の山水画描いた。 居節(1527 - 1586年) - 蘇州の人。文徴明弟子。徴明の影響大きい山画を残した

※この「沈周、文徴明と呉派」の解説は、「中国の絵画」の解説の一部です。
「沈周、文徴明と呉派」を含む「中国の絵画」の記事については、「中国の絵画」の概要を参照ください。

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