沈周、文徴明と呉派
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呉派の祖とみなされる沈周(しんしゅう、1427 - 1509年)は蘇州府呉県相城里の人。字は啓南。石田(せきでん)と号し、別号を白石翁といった。沈家は代々の名家で、父の沈恒、伯父の沈貞も画家であり、沈周は父を継いで糧長(徴税官)の地位にあった。ただし、所伝のとおりとすると数え年15歳で糧長に就任したことになり、実際に彼が徴税業務を行っていたかどうかは疑問視されている。絵は董源、巨然、元末四大家のうちの黄公望、呉鎮を学んでいる。 明代を代表する画家で文化人である文徴明(1470 - 1559年)は、曽祖父の代から蘇州に定住していた名家の出で、父は温州知府を務めた。徴明は初名を壁または璧といい、徴明は字であったが、後に字を徴仲と改めた。衡山、停雲生などと号する。詩文書画のいずれにも通じ、詩は呉寛(1435 - 1504年)、書は李応禎(1431 - 1493年)に学んだという。絵は沈周に師法し、元末四大家、とりわけ王蒙と倪瓚の影響を受けている。なお、沈周とは交流があり、影響を受けたことは確かだが、師・弟子の関係であったかどうかは定かでない。画風は平明で、淡彩、淡墨、擦筆を好んで用いるが、晩年には作風が変化し、王蒙風の細かく描き込んだ余白の少ない画面になっている。科挙に10回落ちた後、嘉靖2年(1523年)、歳貢生として北京に行き、翰林院待詔に任じられた。しかし、その3年後に辞職して帰郷し、以後は自適の生活を送って、90歳で没した。子の文嘉(ぶんか)、甥の文伯仁(ぶんはくじん)も著名な画家である。 沈周、文徴明に加え、陳淳(ちんじゅん)、陸治(りくち)、文伯仁、居節(きょせつ)など周辺の画家を含めた一派を、蘇州の古名の呉をとって呉派と呼んでいる。呉派は宋元以来の文人画の系列に位置づけられ、浙派の行家(職業画家)に対して呉派は利家(文人画家)とされている。画風的には浙派が水墨の濃淡を主調とし、筆法に粗放な部分があるのに対し、呉派は水墨に淡彩を交えた技法を主体とする。ただし、すべての画家がこうした二分法に納まるものではない。たとえば、理論家によって浙派、すなわち行家に分類されている呉偉は士人の家の生まれであり、実際は利家であった。 陳淳(1483/1484 - 1544年) - 江蘇呉県の人。文徴明に師事した。写意的な花鳥をよくした。 陸治(1496 - 1576年) - 呉県(蘇州)の人。文徴明の弟子。山水や着色花鳥画を得意とした。 文伯仁(1502 - 1575年) - 文徴明の甥。多くの後継者を出した文氏一族の中でももっとも有力な画家とされる。画面の隅々まで白描風の墨線で細かく描き込んだ、王蒙風の山水画を描いた。 居節(1527 - 1586年) - 蘇州の人。文徴明の弟子。徴明の影響の大きい山水画を残した。
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