沈南蘋の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 08:41 UTC 版)
第八代徳川将軍の徳川吉宗は、絵画を好む人物でもあった。吉宗はお抱えの狩野派の絵師から絵を習っていたがそれに飽き足らず、中国絵画を長崎経由で求めた。しかしその望みは叶わず、結局その代りとして日本に来たのが画人の沈南蘋であった。享保16年(1731年)12月のことである。南蘋は享保18年の9月まで長崎に滞在したが、そのあいだ南蘋は通事の神代繍江(熊斐)ひとりだけを日本人の弟子として認め、これに絵を教えた。 南蘋は、それまでの狩野派の花鳥画について批判的だったようである。熊斐の弟子森蘭斎の伝えるところによれば、狩野元信の花鳥画を見て「少年ノ時画ク所ナラン」、つまり子供が描いたような絵だと評しており、狩野探幽についても「老筆材気余リ有テ執心タラズ」、器用に描いているように見えるが下手な絵描きだと述べている(いずれも蘭斎の著『蘭斎画譜』より)。南蘋の画風は明代の「勾花点葉体」という画法にもとづき写実を追求したものであった。熊斐はその後多くの弟子を持ち南蘋の画風を伝えた。それまでの狩野派などとは違ったその画風は人々のあいだで持てはやされ、谷文晁や渡辺崋山、司馬江漢などが南蘋の画風を学び、また琳派でありながら谷文晁と親交のあった酒井抱一も南蘋画風の影響を受けたという。南蘋画風の花鳥画は盛んに描かれ明治に至った。
※この「沈南蘋の影響」の解説は、「花鳥画 (日本)」の解説の一部です。
「沈南蘋の影響」を含む「花鳥画 (日本)」の記事については、「花鳥画 (日本)」の概要を参照ください。
- 沈南蘋の影響のページへのリンク