江東進出を図る
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 17:46 UTC 版)
呂布討伐後、陳登は長江・淮水流域で非常に人望が厚かったので、江南を併合する野望を抱くようになったという。孫策とは呂布が健在であった頃から敵対関係であり、一族の陳瑀が揚州で孫策と戦ったが敗れている(「孫破虜討逆伝」が引く『江表伝』)。 まず、孫策が西上した隙を狙って、かつて呉郡の有力者であった厳虎の残党を扇動して、孫策に叛かせようとした(「孫破虜討逆伝」が引く『江表伝』)。反乱を鎮めた孫策が報復として徐州に攻め込んできたが、孫策は孫権を派遣して匡奇城に進攻した、陳登は匡奇城に籠り、援軍要請の使者として陳矯を曹操の下へ派遣した。孫策は江東で征伐準備をしている間、刺客に襲撃された際に負った傷が原因で急死した。曹操の援軍が来て孫権軍が撤退すると、陳登はこれを追撃して、伏兵を多数設け孫軍配下の周章軍を大いに破った、10倍以上の敵を計略を用いて大いに壊滅した。(「陳登伝」「陳矯伝」が引く『先賢行状』。陳登が敵軍を追撃した結果、この戦果は孫氏軍閥の総兵力を超えた。『先賢行状』の正確性については批判的な評価が多い。また『三国志』魏書国淵伝には「魏軍が賊軍を破った場合、それを報告する上奏文では、討ち取った首級・戦果を10倍に誇張して記載することが通例となっている」という旨の記述がある。) 孫策は許を急襲しようとして横死したとされるが、本当の標的は許ではなく陳登であったと孫盛は考察しており、裴松之も陳登が第一の標的であったとしている(「孫破虜討逆伝」が引く『異同評』)。 その後、東城太守に転任したが、広陵の民衆が陳登を慕い付いて行こうとしたため、陳登はこれを立ち戻らせたという。39歳で死去した。204年に夏侯惇が伏波将軍を拝命しているため、陳登の没年はそれ以前の可能性が高い。 時期は不明だが、まだ広陵太守であったころ、陳登は魚の膾を食し、それゆえ胃に寄生虫が湧いてしまったことがあった。このときは華佗の投薬によって一度は治癒したが、華佗は3年後にこの病気が再発することを予言し、良い医者を側におくよう忠告した。それから3年後、果たして病気が再発したが、そのとき既に華佗が不在であったため、陳登は病死してしまったという(「方技伝」)。
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