江戸 - 大正時代
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江戸時代から明治・大正にかけては棋士の数が少なく、そのため強さの序列をつけるのに同じ相手と何局も戦い、その結果によって決めていた。特に必要がある場合に期間を決めてまとめて打つこと、指すことがあった。 有名なものとして、次のようなものが挙げられる。 囲碁本因坊道悦 - 安井算知 算知の碁所襲位に異を唱えたもの。道悦定先の手合割で60番の予定であったが、16番目終了時に道悦が6番勝ち越して手合割が先先先に直ったため20番で終了し、算知は碁所を引退。 井上道節因碩 - 本因坊道知 道知が独り立ちできるかの試験碁で、10番を2度打っている。 ただし、目的を達したのか2度目は7番で終了している。 本因坊察元 - 井上春碩因碩 名人碁所決定戦。互先20番の予定だったが初番を持碁 のあと察元が5連勝して圧倒したためその後自然消滅。 本因坊秀策 - 太田雄蔵 手合割は互先、17番目で秀策が4番勝ち越しとなり雄蔵の先先先に直る。30番の予定であったが23番で終了。 呉清源の十番碁 相手を変えて何度も行われたため、第一の形態と第二の形態の混合になっているほか、ずばり第二の形態のものも行われている。 将棋大橋宗銀-伊藤印達 まだ若い 跡目二人に対し、将来の名人将棋所を実力で決めさせようという意図があったという見方が有力だが、家元同士の代理戦争だったのではという俗説もある将棋界唯一の争い将棋。途中から4連勝手直りという条件が加わり、結果印達が宗銀を角落ちにまで指し込む。対局者双方が体を壊したため57番(56番とも言われる)で打ち切られ、その後対局者双方とも2年を経ずして亡くなるという壮絶な結末を迎えた。予定番数は不明だが一説には100番であったといわれている。 昔は上のように偶数番の番勝負が普通であった。というのも、二局一組の手合割 というのがあったため不公平のないように、また実力伯仲、あるいは実力差が手合割に見合うものならばあえて勝負をつける必要がないという考えがあったためである。
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