江戸 - 大正時代とは? わかりやすく解説

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江戸 - 大正時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 08:49 UTC 版)

番勝負」の記事における「江戸 - 大正時代」の解説

江戸時代から明治・大正にかけては棋士の数が少なく、そのため強さ序列をつけるのに同じ相手と何局も戦いその結果によって決めていた。特に必要がある場合に期間を決めてまとめて打つこと、指すことがあった。 有名なものとして、次のようなものが挙げられる囲碁本因坊道悦 - 安井算知 算知の碁所襲位に異を唱えたもの。道悦定先の手合割で60番の予定であったが、16番終了時道悦が6番勝ち越して手合割先先先に直ったため20番終了し、算知は碁所引退井上道節因碩 - 本因坊道知 道知が独り立ちできるかの試験碁で、10番2度打っている。 ただし、目的達したのか2度目7番終了している。 本因坊察元 - 井上春碩因碩 名人碁所決定戦互先20番予定だったが初番持碁 のあと察元が5連勝して圧倒したためその後自然消滅本因坊秀策 - 太田雄蔵 手合割互先17番目で秀策が4番勝ち越しとなり雄先先先に直る30番予定であった23番で終了呉清源の十番碁 相手変えて何度も行われたため、第一形態第二形態混合になっているほか、ずばり第二形態のものも行われている。 将棋大橋宗銀-伊藤印達 まだ若い 跡目二人対し将来名人将棋所実力決めさせようという意図があったという見方有力だが、家元同士代理戦争だったのではという俗説もある将棋界唯一の争い将棋途中から4連勝手直りという条件加わり結果印達が宗銀を角落ちにまで指し込む。対局者双方体を壊したため57番(56番とも言われる)で打ち切られその後対局者双方とも2年経ずして亡くなるという壮絶な結末迎えた予定番数不明だ一説には100番であったといわれている。 昔は上のように偶数番の番勝負が普通であったというのも二局一組の手合割 というのがあったため不公平のないように、また実力伯仲、あるいは実力差手合割見合うものならばあえて勝負をつける必要がないという考えがあったためである。

※この「江戸 - 大正時代」の解説は、「番勝負」の解説の一部です。
「江戸 - 大正時代」を含む「番勝負」の記事については、「番勝負」の概要を参照ください。

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