水門設置と将監川締め切り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 09:59 UTC 版)
1780年(安永9年)6月の水害により流域に大きな被害をもたらしたことを契機として、被害の大きかった八千代市内を中心に印旛沼開削計画が浮上している。この際に長門川は印旛沼及び利根川との接続口に、それぞれ三連の観音開き閘門を建設し、また枝利根川(当時)も利根川本流から締め切ることとされた。名主の目論見を受け江戸幕府直営で進められた事業は1783年(天明3年)の浅間山噴火で一時中断されたものの、その後も続けられた。ところが1786年(天明6年)7月の豪雨により利根川が大氾濫を起こし、江戸一帯が被害を受けた。無論印旛地域の被害も甚大であり、整備中の長門川安食水門が破壊されるなど工事関連施設が尽く水の泡となった。間もなく時の将軍徳川家治が死去、計画を推進していた老中田沼意次も罷免され、以降工事が再開されることはなかった。 しかし明治期に入ると洪水が相次ぐようになり、特に1896年(明治29年)の洪水は印旛沼周辺に未曾有の被害をもたらし、河川法制定の契機ともなっている。これを受け1900年(明治33年)より利根川本流の第一期改修工事、続いて1911年(明治44年)より第二期改修工事が行われた。その一環として1912年(大正元年)に将監川が利根川本流から締め切られ、更に1918年(大正7年)には長門川と利根川の合流地点にて印旛水門の建設が開始された。この水門は1922年(大正11年)に竣工し、同年中に蒸気機関による排水ポンプを使った内水防御が行われるようになった。これら一連の治水事業によって、大正期に入ってからは印旛沼流域での大洪水は見られなくなった。
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