民撰議院論争
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『明六雑誌』が発行されていた時期は、ちょうど自由民権運動の初期と重なる。1874年、板垣退助は民撰議院設立建白書を政府に提出したが、これをめぐって明六社内でも議論が戦わされた。議論の中心となったのは、加藤弘之の民撰議院時期尚早論(「民撰議院不可立の論」第4号)であった。加藤は議院そのものには反対しないものの、国民のレヴェルがまだ議院を必要とするほど発展していないと断じ、啓蒙を通じて文明化を図り、その上で議院制度を導入しようと主張した。いわば漸進論である。森有礼や西周、中村正直、阪谷素、神田孝平もこれに同調する立場であった。一方、西村茂樹は国民が「半開」(文明と野蛮の中間)にあるから時期尚早というのは理由にできない、むしろ議院を設立することで民衆を「文明」へと導くべきと主張し、民撰議院を設立することに積極的な賛成を表明している。民撰議院設立自体を啓蒙の契機と見なす立場であった。議院賛成派は西村の他、津田真道、福澤であった。 『明六雑誌』の論争は、雑誌の枠を超えて反響があった。加藤の時期尚早論に対し、馬城臺二郎(大井憲太郎)が東京日日新聞に反論を掲載した。馬城は「三権分立」で理論武装した上で、藩閥政治を打破するためには、まず民撰議院設立が必要であると述べた。これに対し加藤は「半開」の国家で議院を設立しても「有司専制」(官僚独裁)に陥るだけだとして、最後まで慎重であった。 この論争はあくまで民撰議院の設置時期に限定されるものであって、それ以上の深みは無かったけれども、民撰議院が世情の関心の的となったことで、本格的な自由民権運動の種子をまいたと評価されている。
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