歴史と戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 01:16 UTC 版)
この狭い地峡は戦略的・商業的価値が高く、クリミアを支配した古代ギリシア人植民者や近世のクリミア・タタール人らは地峡に防衛施設としてペレコープ要塞(ウクライナ語版)やペレコープ堡塁(ウクライナ語版)を築いており、しばしば激しい戦いの舞台となった。15世紀にはジェノヴァ共和国の支配下に置かれ、後にクリミア・ハン国の領土となった。ストラボンはこの地峡を「イストゥム」(「地峡」の意)、ジェノヴァ共和国人は「ズハノ」と呼び、クリミア・タタール人は「オル」(壕、堀)と呼んでいた。 クリミア・ハン国はペレコープ地峡を横断する要塞線を築き、その門となる場所にオル=カプの要塞(ペレコープ要塞)を置いた。この要塞はクリミアとロシアやポーランド間の貿易や、クリミアやオスマン帝国で必要とされる白人奴隷の取引、地峡南部で取れる塩の生産で非常に栄えた。一方でウクライナ・コサックによる襲撃も何度も受けている。1783年、クリミア・ハン国はロシア帝国に併合されたためペレコープ地峡はロシア領となっている。 1920年11月、ロシア内戦の終盤、ピョートル・ヴラーンゲリ将軍率いるロシア軍(白軍)が立てこもるクリミア半島に対して、ミハイル・フルンゼ将軍率いる赤軍南部戦線がペレコープ地峡と腐海を渡るべく攻撃を開始した。このペレコープ=チョーンガル作戦によって双方が甚大な犠牲を出したが、最終的に赤軍が勝利し、ロシア内戦は終結へと向かい、敗れた白軍と民間人14万はクリミア半島を捨てて黒海をイスタンブールへと逃げることになった。この戦いで、ペレコープ市は壊滅した。 第二次世界大戦(独ソ戦)では、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン指揮下のドイツ国防軍およびルーマニア軍がペレコープ地峡を渡ってクリミア半島へと侵入した(セヴァストポリ包囲戦)。1941年9月24日から5日間にわたり続い戦いでは、地峡の奥深くまで敷かれた赤軍陣地にドイツ軍は苦戦したが突破し、セヴァストポリへと進んでいった。1944年5月9日、赤軍はドイツ軍からクリミア半島の支配を奪還している。 1954年にソビエト連邦のロシア・ソビエト連邦社会主義共和国からウクライナ・ソビエト社会主義共和国へクリミアが移管された際にペレコープ地峡はウクライナの領域となった。
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