武昌駅 - 武昌北駅間
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/23 14:40 UTC 版)
「粤漢線」も参照 1900年7月に武漢市にある鮎魚套駅(現・余家湾駅)から粤漢線の敷設が開始された。しかし、長沙駅 - 株洲駅間の敷設が終了した時点で資金不足に陥った。このため、武昌区間の敷設計画は7年間凍結された。 その後、住民らの反対を押し切り、1909年4月にドイツ、イギリス、フランスの銀行と「湖広鉄路借款合同」に署名して利子0.5 %で550万ポンドの建設資金を借り、残りの区間を敷設することになった。 建設再開後に、漢粤川鉄路の代表兼技師長であった詹天佑は、鮎魚套駅より北にある「土地が開けており、川の流れが急でない」徐家棚に新駅を置くことを決めた。この結果、この新駅が粤漢線の終点となった。1918年9月18日に、湘鄂区間が完成し、武昌徐家棚駅(現・武昌北駅) - 長沙駅間の計365 kmの通行が可能となった。 1930年代に入って京漢線も開通し、乗り換えの需要が発生したものの、2駅は長江に遮られていたため、乗り換えをする客はフェリーに乗る必要があった。そのため、1937年3月10日に、劉家廟駅(江岸駅)と徐家棚駅にそれぞれ鉄道連絡船用のターミナルが作られ、長江を鉄道で移動することが可能となった。しかし、翌1938年に日本軍が武漢に侵攻したことで連絡船の運航は1947年まで停止された。1957年に武漢長江大橋が完成し、京漢線と粤漢線が接続されたことで京広線となり、連絡船で列車を運ぶ必要が無くなった。この際に、武昌南駅を拡張して、武昌地区の主要駅となり、武昌駅へと改称された。その後、連絡船ターミナルは廃止され、連絡船として運航していた「北京号」「漢口号」「上海号」は蕪湖市へと移された。武昌北駅から旧粤漢線のこの区間は無人であった。
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