正室・婚約者(継室)・側室など
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「松平容保」の記事における「正室・婚約者(継室)・側室など」の解説
正室は容敬の五女で従妹にあたる敏姫。天保14年(1843年)に会津若松城で生まれ、9歳で江戸に出府。安政3年(1856年)14歳で22歳の容保の正室となるが、文久元年(1861年)10月に19歳で死去した。先代・容敬の実子の中では唯一成長した人物であるため、早くから容保との縁組が予定されていたと考えられる。 敏姫の死の翌年、文久2年(1862年)10月、容保は加賀藩主・前田慶寧の長女・禮姫と婚約し、11月に幕府の許可を得た。しかし、12月に京都守護職として上洛し、京に長期滞在したため婚儀は延期された。慶応2年(1866年)12月に容保が一橋慶喜の弟の余九麿(喜徳)を養嗣子にし、翌慶応3年に余九麿元服を機に東下する内命が下りたことから、6月26日結納が贈られる。だが、容保は結局この時も京を離れられず、戊辰戦争の会津降伏、容保長男・容大の誕生などを経て、明治4年(1871年)の廃藩置県を機に縁組を正式に解消した。禮姫は文久2年から明治4年まで金沢に在住していたので、この間に容保と会った可能性は低い。明治6年(1873年)に榊原政敬に嫁いでいる。 浦乃局(関山通子)は、柴桂子『会津藩の女たち』で会津松平家に奉公し、側室だった可能性を挙げられているが、公式記録には見当たらない。 子供を産んだ側室は田代孫兵衛の娘の佐久と川村源兵衛の娘の名賀の2人。第1子の出産はともに会津降伏から間もない明治2年(1869年)で、名賀が3月、佐久が6月。明治以降、容保が死去するまで両人とも容保に仕えた。秩父宮妃節子『銀のボンボニェール』で節子の父・松平恆雄が「(側室だったので)母と呼ばせてもらえなかった」と回想している。
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