正室・婚約者・側室などとは? わかりやすく解説

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正室・婚約者(継室)・側室など

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 14:28 UTC 版)

松平容保」の記事における「正室婚約者継室)・側室など」の解説

正室は容敬の五女で従妹にあたる敏姫。天保14年1843年)に会津若松城生まれ9歳江戸出府安政3年1856年14歳22歳の容保の正室となるが、文久元年1861年10月19歳死去した先代・容敬の実子の中では唯一成長した人物であるため、早くから容保との縁組予定されていたと考えられる。 敏姫の死の翌年文久2年1862年10月、容保は加賀藩主前田慶寧長女・禮姫と婚約し11月幕府許可得た。しかし、12月京都守護職として上洛し、京に長期滞在したため婚儀延期された。慶応2年1866年12月に容保が一橋慶喜の弟の余九麿(喜徳)を養嗣子にし、翌慶応3年に余九麿元服機に東下する内命下りたことから、6月26日結納贈られる。だが、容保は結局この時も京を離れられず、戊辰戦争会津降伏、容保長男・容大の誕生などを経て明治4年1871年)の廃藩置県機に縁組正式に解消した。禮姫は文久2年から明治4年まで金沢在住していたので、この間に容保と会った可能性は低い。明治6年1873年)に榊原政敬嫁いでいる。 浦乃局(関山通子)は、柴桂子会津藩女たち』で会津松平家奉公し側室だった可能性挙げられているが、公式記録には見当たらない子供産んだ側室田代孫兵衛の娘の佐久川村源兵衛の娘の名賀2人第1子出産ともに会降伏から間もない明治2年1869年)で、名賀3月佐久6月明治以降、容保が死去するまで両人とも容保に仕えた秩父宮妃節子『銀のボンボニェール』で節子の父・松平恆雄が「(側室だったので)母と呼ばせてもらえなかった」と回想している。

※この「正室・婚約者(継室)・側室など」の解説は、「松平容保」の解説の一部です。
「正室・婚約者(継室)・側室など」を含む「松平容保」の記事については、「松平容保」の概要を参照ください。

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