横浜・第一次DeNA時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 23:08 UTC 版)
「藤田一也」の記事における「横浜・第一次DeNA時代」の解説
2005年、7月27日の中日ドラゴンズ戦(山形県野球場)に延長12回に代走でプロ初出場。9月1日の広島東洋カープ戦(横浜スタジアム)で「7番・三塁手」で初スタメン出場を果たし、4回の第2打席でトム・デイビーからレフト前へプロ初安打を放った。 2006年、内川聖一らの不調で9月以降、「2番・二塁手」でスタメン起用されることが多くなった。この年は自己最多の65試合に出場したが、打率は.203と振るわなかった。9月7日の広島戦(下関球場)では試合後のお立ち台に立ち、「今日は下関での試合ですがこの後夕食は何食べますか?」というアナウンサーの問いに大きな声で「ふぐ食べます!」と答え、球団発祥の地である下関のファンを沸かせた。 2007年、読売ジャイアンツから移籍した仁志敏久が二塁のレギュラーに定着したことや、俊足内野手の野中信吾の台頭もあり、前年より出場機会を減らした。 2008年、不調の石井琢朗に代わって遊撃を守る機会も増えたが、オリンピック期間中に代表選手としてチームを離れた村田修一に代わって三塁を守った石川雄洋が活躍し、村田の復帰後も石川がそのまま遊撃を守るようになったため、仁志が怪我で離脱した後は二塁を多く守った。 2009年、レギュラー二塁手の仁志が開幕から打率1割台と絶不調に陥ったため、5月から二塁手としてスタメン起用が増える。打率.269、チームトップの24犠打を記録した。 2010年、新加入したホセ・カスティーヨが二塁に定着したため、主に二塁や遊撃の石川の控えとして起用される。前年よりも出場機会を減らしたものの、打率では自己最高の成績を残した。11月23日、自身のブログにて結婚を発表した。 2011年、退団したカスティーヨと入れ替わる形で加入した渡辺直人が二塁のレギュラーに定着し、藤田は主に二塁の控えとして起用された。打席数も前年程度に留まったが、規定打席未満ながら打率.303を記録し、守備でもシーズン無失策を達成した。
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