横丁・屋台
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 16:37 UTC 版)
都心部には、東一センター(東一連鎖街)、 東一市場、壱弐参横丁(いろはよこちょう)、文化横丁、仙台銀座、じゃんじゃん横丁など、戦後の雰囲気を残した横丁や小路の飲み屋街がある。これらの横丁には、第二次世界大戦後から延々と続く店がある一方で、国分町などの飲食店ビル等に比べて開店資金が少なくても済むメリットから、若者らの新規出店が相次いで注目の店も増えた。若者の横丁回帰現象に対応し、東一市場と文化横丁には踊る方のクラブも進出した。しかし、老朽化や耐震基準を満たしていないこと等から再開発の話が度々出ており、東一センターとじゃんじゃん横丁が再開発で消滅した。 かつて屋台は仙台市街に470軒あったとされる。戦後、仙台駅前にあった闇市の酒売りなどが始めたのが仙台の屋台の始まりとされるが、1950年(昭和25年)のレッドパージで公職追放された者が新規開業する例も現れた。1950年(昭和25年)に青葉通の建設が始まると、建設中にも関わらず歩道部分に屋台が連なり、代執行で移動させられたりした。このように、建設中から屋台街だった青葉通は1954年(昭和29年)に完成。1956年(昭和31年)には仙台駅前の約30軒の屋台が青葉通に移転させられた。1965年(昭和40年)に屋台営業が「一代限り」と規制されると次第に軒数は減り、現在営業しているのは青葉通の3軒のみとなっている。市民グループを中心に、屋台の新規開業の許可を市当局にかけあっているが、見通しは立っていない。これは屋台がテキヤ系暴力団の資金源となるため、戦後の一時期に宮城県警察が取り締まりを行ったことによる。革新首長時代には風俗営業店も厳しく取り締まりを受け、その結果として風俗店は現在でも都市規模の割に少なく、代わりにデリバリー型が発達している。
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