青葉通の建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 22:44 UTC 版)
「曲直問答」を別としても、青葉通の予定地は市街中心にあったから、多数の立ち退きが必要になった。中には焼け跡に不法に建てられたものもあった。焼け跡に生まれた商店街「駅前マーケット」は立ち退きでなくなった。 仙台駅の工事は1948年(昭和23年)6月に始まった。青葉通は1950年(昭和25年)にはじまり、1954年(昭和29年)に完成した。家屋取り壊し直後の駅前は、広いばかりでむき出しの土が露出し、雨にはぬかるみ晴れれば埃を舞い上げ、「仙台砂漠」と呼ばれた。数年で舗装され、街路樹が植えられ、街灯が付けられ、徐々に美観が整った。 青葉通のケヤキ並木は1950年(昭和25年)頃から1965年(昭和40年)頃までに植えられた。戦前の仙台は豊富な屋敷林によって市街に樹木が豊富な都市で、「杜の都」の名をとった。しかしそれが空襲で焼き払われると、一転して緑に乏しい街になってしまった。仙台市にとって、広くとった道路に新設する街路樹は街に樹木を取り戻すためのものであった。当初は樹種の選択に様々な案があり、ケヤキは愛宕上杉通との交差点から東一番丁通との交差点までの歩道側だけに植えられた。木は台原から、失業対策事業の労働者が移植した。やがてケヤキ並木の評判が高まり、他の場所もケヤキでそろえられ、定禅寺通のものとあわせて杜の都のシンボルとされるようになった。
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