権兵衛の誓約書
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権兵衛は、結婚の際に 〔第1条〕「一、礼儀を正ふし信義を重んじ質素を旨とすることを目的とすべき事」 〔第2条〕「一、夫婦むつまじく生涯たがいにふわ〔不和〕を生ぜざる事」 〔第3条〕「一、夫婦たるの義務をやぶるにあらざればいかなる事実あるも決して離縁を許すべからず」 〔第4条〕「一、家事の整頓はすべて妻の責ににん〔任〕ず」 〔第5条〕「一、一夫一婦は国法の定むる処なれば誓〔ちかひ〕て之に背〔そむか〕ざる事」 〔第6条〕「一、家財は以〔もつて〕妻子を養育するの余沢なれば妻の外他より口を入るるを許さず」 〔第7条〕「一、一家に属することはすべて妻の責にん〔任〕にまかす」※〔〕内は引用者が挿入。 の七か条から成る誓約書(明治11年8月15日付)を書いて、この後も終生変わることのなかった登喜子への愛情と敬意を示した。この誓約書は、登喜子の死後に、登喜子の遺品の中から発見された。漢字には権兵衛の手で振り仮名が付されており、第2条の「生涯」に付された振り仮名は「いつまでも」であった。 権兵衛と登喜子の結婚は、当時(明治時代初期)には珍しい恋愛結婚であった。権兵衛は「一夫一婦」の誓いを生涯に渡って守り、浮いた話は一切なかった。 権兵衛と登喜子の夫婦は6人の子供に恵まれた。長女・イネ(1879–1976)は海軍大臣を務めた財部彪 海軍大将に、次女・すゑ(1881–1978)は山路一善 海軍中将に、三女・ミね(1885–1959)は山本盛正(川崎汽船、川崎造船所重役)に、四女・なミ(1887–1945)は西郷従道の息子の上村従義 男爵に、五女・登美(1888–1962)は首相松方正義の息子である乙彦(東京コークス販売社長)にそれぞれ嫁いだ。長男の清(1883–1960)は海軍軍人(海兵34期、海軍中佐)。
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