東アジア・東南アジアの開発独裁と明治維新の違い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 15:04 UTC 版)
「明治維新」の記事における「東アジア・東南アジアの開発独裁と明治維新の違い」の解説
明治維新の通説として、天皇を戴いた排他的な藩閥政権が、立憲政治の進展を遅らせながら、経済と軍事の近代化に邁進したとするような解釈があるが、日本政治史研究の坂野潤治と産業政策研究の大野健一は、このような解釈は、事実に相反していると批判する。このような通説では、明治政府は、台湾の蔣介石政権(1949-75)、タイのサリット・タノム政権(1958-73)、韓国の朴正煕政権(1961-79)、シンガポールのリー・クアンユー政権(1965-90)、中華人民共和国の鄧小平政権(1976-97)、マレーシアのマハティール政権(1981-)などの開発独裁のイメージと重ねられた。開発独裁の特徴は、1)内外危機への対応、2)強力な指導者、3)指導者を支えるエリート、4)政治改革を後回しにした開発イデオロギーの最優先、5)民主的手続きではなく経済成果に基づく正統化、6)20-30年の同一体制の継続などがあるが、これらのうち明治維新との共通項は1)の内外危機への対応くらいであると坂野-大野は指摘する。 坂野-大野によれば、明治政権は、単純な独裁体制が何十年も存続したわけではなく、カリスマ的指導者が上意下達の命令を下したわけでもなく、経済の近代化を最優先したわけでもなく、政権の正統性を天皇の権威のみに依存したわけでもなかった。明治維新は、「富国強兵」と「公議輿論」の複数の目標、細かく分ければ、「富国」と「強兵」と「議会」と「憲法」の四目標の並列的競合を通じて、それに指導者間の合従連衡、また指導者らによる目標の優先順位の自由な変更を通じて達成された。明治の変革期においては、指導者も固定的ではなく、優先される路線は数年ごとに入れ替わり、勝利した集団も敗退した集団も永続的にその地位にいたわけではなく、これは開発独裁のような単一目標の追及や単純な政治構造や単線的進行とは異なる、極めて複雑な局面展開をともなう柔構造モデルであったという。
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