村上氏と毛利氏香西氏との合戦とは? わかりやすく解説

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村上氏と毛利氏・香西氏との合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 16:07 UTC 版)

本太城」の記事における「村上氏と毛利氏・香西氏との合戦」の解説

しかしながら三好氏後援受けた香西氏反撃が始まると村上氏苦境に立たされ、大友氏豊後)を仲介者として香西氏和睦し使者としても功を挙げた島吉利本太城となったこの頃から、村上武吉毛利氏の敵であった大友氏三好氏と誼を通じようになった一方備前では浦上宗景勢力拡大しており、その家臣である宇喜多直家三村家親暗殺し永禄10年1567年)の明善寺合戦その子三村元親破り永禄11年1568年)には備前松田氏滅ぼし永禄12年1569年)には離反した宇喜多直家降し備前ほぼ一国美作備中播磨一部という4ヶ国に跨る所領を持つ大名へと成長していた。 永禄13年1569年10月浦上宗景は、大友宗麟尼子勝久通じ毛利氏敵対する毛利氏三村氏は、浦上氏宇喜多氏)、大友氏九州)、尼子氏残党出雲)だけでなく、三好氏阿波讃岐)、三浦氏美作)、山名氏伯耆因幡)とも敵対し包囲されていた。元亀元年1570年10月浦上宗景織田信長・毛利元就敵対する三好氏と結び、三木城播磨)を攻撃同月宇喜多直家毛利敵対し幸山城備前)を攻撃した元亀2年本太城合戦 元亀2年1571年2月村上武吉浦上宗景と結び毛利家から離反した小早川隆景即座に本太城討伐の兵をあげ、同年4月には、本太城陥落した。 この時、児島半島日比国人四宮氏と、讃岐香西元載小早川隆景と結び、児島上陸している。香西元載は賀陽城通生)を攻め、その家臣植松往正が守将の吉田右衛門尉討ち取った。しかし続いて本太城攻めた時に霧の中戦いとなり香西元載戦死した

※この「村上氏と毛利氏・香西氏との合戦」の解説は、「本太城」の解説の一部です。
「村上氏と毛利氏・香西氏との合戦」を含む「本太城」の記事については、「本太城」の概要を参照ください。

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