村上氏と毛利氏・香西氏との合戦
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「本太城」の記事における「村上氏と毛利氏・香西氏との合戦」の解説
しかしながら、三好氏の後援を受けた香西氏の反撃が始まると村上氏は苦境に立たされ、大友氏(豊後)を仲介者として香西氏と和睦し、使者としても功を挙げた島吉利が本太城主となった。この頃から、村上武吉は毛利氏の敵であった大友氏、三好氏と誼を通じるようになった。 一方、備前では浦上宗景が勢力を拡大しており、その家臣である宇喜多直家が三村家親を暗殺し、永禄10年(1567年)の明善寺合戦でその子・三村元親を破り、永禄11年(1568年)には備前松田氏を滅ぼし、永禄12年(1569年)には離反した宇喜多直家を降し、備前ほぼ一国と美作・備中・播磨の一部という4ヶ国に跨る所領を持つ大名へと成長していた。 永禄13年(1569年)10月、浦上宗景は、大友宗麟と尼子勝久と通じ、毛利氏と敵対する。毛利氏と三村氏は、浦上氏(宇喜多氏)、大友氏(九州)、尼子氏残党(出雲)だけでなく、三好氏(阿波・讃岐)、三浦氏(美作)、山名氏(伯耆・因幡)とも敵対し、包囲されていた。元亀元年(1570年)10月、浦上宗景は織田信長・毛利元就と敵対する三好氏と結び、三木城(播磨)を攻撃。同月、宇喜多直家も毛利と敵対し幸山城(備前)を攻撃した。 元亀2年の本太城合戦 元亀2年(1571年)2月、村上武吉が浦上宗景と結び毛利家から離反した。小早川隆景は即座に本太城討伐の兵をあげ、同年4月には、本太城は陥落した。 この時、児島半島日比の国人四宮氏と、讃岐の香西元載が小早川隆景と結び、児島に上陸している。香西元載は賀陽城(通生)を攻め、その家臣の植松往正が守将の吉田右衛門尉を討ち取った。しかし続いて本太城を攻めた時に、霧の中の戦いとなり香西元載は戦死した。
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