村上氏の衰退?
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 02:16 UTC 版)
応永23年(1416年)「上杉禅秀の乱」が起こると、小笠原政康が中心になって一族・国人衆を率いて信濃国の防禦を固めた。この乱を契機として信濃国内の軍事指揮権を掌握した小笠原政康は幕府にその実力を認められ、12月に信濃守護職に任命されて力をつけていった。その結果、相対的に村上氏の勢力は弱まり始めた。 満信以降、村上中務大輔という者が反守護の中心となる。系譜上で中務大輔という人物を特定できないが、村上持清の可能性がある[要出典]。その村上中務大輔を中心とする反守護軍と永享5年(1433年)3月に守護小笠原政康軍と合戦におよび、村上氏は鎌倉公方足利持氏に加勢を求めた記録があり、持氏は出兵を決断するが関東管領上杉憲実の諫止(かんし)により沙汰止みとなった。そのためか、村上中務大輔はその後、史料にみえない[要出典]。推測でしかないが、この戦いの結果、援軍を得られなかった村上中務大輔は滅亡もしくは衰退したのではないだろうか[要出典]。また、援軍を求めるようになった背景には村上氏の衰退と小笠原氏の台頭があったことが推測される[要出典]。
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