村上水軍の活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 19:17 UTC 版)
文献史料上、最も古い記録は南北朝時代である。1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)のもので、能島村上氏が東寺領の弓削庄付近で海上警護を請け負っていた。南北朝時代の村上水軍は、因島・弓削島を中心に、芸予諸島近辺の制海権を握っており、海上に関所を設定して通行料を徴収したり、水先案内人の派遣や海上警護請負などを行ったりしていた。 能島村上氏は能島城(能島)、因島村上氏は 長崎城 から 余崎城、その後 青木城 へと移り(長崎城と青木城は因島、余崎城は向島)、来島村上氏は来島城(来島)を本拠として活動した。 戦国期には因島村上氏が毛利氏に臣従した。来島村上氏は毛利氏の支援する河野氏に臣従し、村上通康は越智姓を名乗ることを許された。能島村上氏は河野氏と友好関係を持っていたが、臣従はしなかった。その後は中国地方に勢力を張る毛利水軍の一翼を担い、1555年(弘治元年)の厳島の戦い、1561年(永禄4年)の豊前簑島合戦、1567年(永禄10年)からの毛利氏の伊予出兵、1576年(天正4年)の第一次木津川口の戦いなどが知られる。しかし毛利氏と敵対する勢力に協力的な行動をとったために毛利氏から攻撃された時期もあった。 ただし、村上水軍の支配が実質的に及んだのは、斎灘や燧灘西部など芸予諸島近辺に限られ、瀬戸内海一円を支配した訳ではない。例えば瀬戸内海東部には塩飽諸島の塩飽衆、真鍋島の真鍋衆、日生諸島の日生衆が点在しており、大阪湾への遠征の際は、彼らに通行料を支払い安全を保証してもらっていたに過ぎず、塩飽衆などとの間に従属関係は存在しなかった。
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