朱熹の登場とは? わかりやすく解説

朱熹の登場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 01:04 UTC 版)

朱子学」の記事における「朱熹の登場」の解説

朱熹」も参照 北宋端を発した道学は、南宋の頃には、士大夫の間にすでに相当の信奉者得ていた。ここで朱熹現れ、彼らの学問首尾一貫した体系与えいわゆる朱子学」が完成された。朱熹出現は、朱子学影響するところが単に中国のみにとどまらなかったという点でも、東アジア世界における世界的事件であった朱子学完成させた朱熹は、建炎4年1130年)に南剣州尤渓県山間地帯生まれた。「朱子」というのは尊称19歳科挙試験合格して進士となり、以後各地転々とした。朱熹は、乾道6年1170年)に張栻呂祖謙とともに知言疑義」を著し当時道学中心的存在であった湖南に対して疑義表明すると、「東南三賢」として尊ばれ南宋思想界で勢力広げた。しかし、張栻呂祖謙死去すると、徐々に朱熹思想面において批判する者が現れた。その一人陳亮であり、夏殷周三代漢代統治どのように理解するかという問題めぐって「義利・王覇論争」が展開された。 また、朱熹論争相手として著名なのが陸九淵であり、淳熙2年1175年)に呂祖謙仲介によって両者対面し行われた学術討論会鵝湖の会)では、「心即理」の立場陸九淵と、「性即理」の立場朱熹論争繰り広げた両者その後もたびたび討論行ったが、両者政治的に近い立場にいた時期もあり、陸氏の葬儀朱熹門人率いて訪れるなど、必ずしも対立していたわけではない朱熹は、最後に侍講となって寧宗指導当たったが、韓侂冑憎まれわずか45日で免職となった韓侂冑一派は、朱子など道学者対す迫害続け慶元元年1195年)には慶元党禁起こし朱熹道学一派追放著書発禁処分とした。朱熹死後理宗時期になると、一転して朱熹孔子廟に従祀されることとなり、国家的な尊敬対象となった

※この「朱熹の登場」の解説は、「朱子学」の解説の一部です。
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