朱満
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/26 15:06 UTC 版)
貧しいながらも生涯山河を詠い続けた厲鶚にとって、朱満との出会いと別れは忘れえぬ体験であったと思われる。朱満は烏程(現在の浙江省湖州市)出身。紹介の労を取ったのは、「悼亡姫十二首 序」に名前の見える沈幼牧で、朱満は彼の遠縁の従妹。出会いは雍正乙卯の中秋(1735年8月)、朱満17歳、厲鶚43歳の時である。彼女は針仕事のほかに筆硯を好み、厲鶚の教えを受けるや、唐詩200首を暗誦してみせた。 厲鶚が病身である事を気遣って慎ましやかに暮らしていた彼女は、乾隆辛酉(乾隆6年、1741年)秋に病に伏せると、翌年正月三日に息を引き取ってしまう。厲鶚の落胆は想像するに余りある。「悼亡姫十二首」とは、この朱満の詩を悼んで作られたものである(但し『浙西六家詩鈔』に収録されているのは12首中の10首のみで、第9首(何限傷心付阿灰。。。)及び第10首(除夕家筵已暗驚。。。)は収録されていない)。 なお朱満という名前は、「序」の書き出し部分「姫人朱氏、烏程人。。。」と、悼亡姫第4首の第3句「梵夾呼名翻満字」から確認できる。また、厲鶚は彼女に「月上」という字(あざな)を与えたが、これは維摩詰(居士)の娘の名前「月上」から取ったもの。 また、「初秋有感」の最終句「正是苕姫秋病初」に現れる「苕姫」は朱満を指しているが、これは彼女が「苕上故姫」と呼ばれていた事によると思われる。この「苕」とは、苕渓(苕水)のことで、その河岸にあった鮑氏の渓楼こそ1735年8月二人が結ばれた場所である。
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