朱泚の乱以前とは? わかりやすく解説

朱泚の乱以前

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/07 05:52 UTC 版)

李晟」の記事における「朱泚の乱以前」の解説

18歳従軍した身長六尺達し、勇敢で軍を圧倒した河西節度使王忠嗣吐蕃攻撃参加した。この時吐蕃に、大きな被害与え、門を開けることを拒む将軍がいたので、王忠嗣は軍に射殺す者を募ると、李晟弓を引き一発殺した王忠嗣李晟厚く賞し背中撫でて万人敵」と呼んだ。後に、鳳翔節度使高升雅がその名を聞くと、李晟自身配下召した高升雅の下で李晟畳州宕州で叛いた羌族撃破して左羽林大将軍となった代宗広徳初期鳳翔節度使の孫志直が李晟遊兵統率させ、李晟が羌の高玉等を撃破すると、特進光禄卿太常卿とした。大暦初期鳳翔に鎮した李抱玉右軍都将とされた。大暦4年769年)、吐蕃霊州包囲すると、李抱玉李晟に兵五千遣わしたが、李晟兵数が数で圧倒するには少なく、策を謀るには多いと断った李晟結局将兵千人大震関に進み臨洮勝利した霊州吐蕃はこれを聞く包囲解いて去った。この功績開府儀同三司となった。邠寧節度使馬璘と共に吐蕃戦い、敗けて退却する際、李晟功績吐蕃を抜くことができ、合川郡王に封ぜられた。しかし、馬璘李晟威名を忌んだことや、李晟無礼見たことから長安送った代宗李晟宿衛留め、右神策都将とした。 大暦14年779年)、徳宗即位すると、吐蕃南詔連合軍十万が三路より西川節度使の崔寧を攻めた李晟と曲環が逆撃し、大勝した建中2年781年)、成徳・魏博・平盧・山南東道の半独立地域造反した。これは成徳李宝臣が子の惟岳に、李正己が子の李納に、田承嗣田悦地位継がせることを徳宗断ったためである。徳宗先鋒李晟河東節度使の馬燧・昭義軍節度使抱真を向かわせ、魏博の田悦を臨洺で大破した田悦魏州帰還したが、李晟の軍は内部揉め討伐阻まれた。この頃、王武俊が惟岳を殺して徳宗投降したが、再びと共に造反した。王武俊が邢州に向かうと、抱真は軍の一部邢州救援に向かわせた。これが馬燧との関係に亀裂生じ李晟仲介した。建中3年782年)に王武俊に負けて魏州を引くと、李晟は王武俊の子王士真が包囲していた趙州の守将の康日知を救援するため、義武節度使の張孝忠と合流した両者は王武俊の拠点である恒州攻撃計画した建中4年783年)春、李晟は張孝忠の子の張昇と共に滔の将軍の鄭景済を清苑攻撃したが、滔が魏州から駆けつけ反撃したため、定州退却した李晟はこの時、病を発した

※この「朱泚の乱以前」の解説は、「李晟」の解説の一部です。
「朱泚の乱以前」を含む「李晟」の記事については、「李晟」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「朱泚の乱以前」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「朱泚の乱以前」の関連用語

1
14% |||||

朱泚の乱以前のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



朱泚の乱以前のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの李晟 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS