馬璘とは? わかりやすく解説

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馬璘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/31 10:15 UTC 版)

馬 璘(ば りん、721年 - 777年)は、唐代軍人本貫岐州扶風県[1]

経歴

右司御率府兵曹参軍の馬晟の子として生まれた。幼くして父を失ったが、困窮しても生業にたずさわらなかった。二十数歳にして、馬璘は『後漢書』馬援伝を読み、「大丈夫たるもの辺野に死ぬべきだ。馬革の裏に遺体を包んで帰ろう」の節までくると、「わが祖先の功業も地に落ちたものではないか」と溜息をついた。開元末年、安西で従軍した。前後して奇功を挙げ、左金吾衛将軍同正に累進した[2][1]

至徳元載(756年)、馬璘は武装した兵士3000を率いて、安西から鳳翔府に駆けつけた。粛宗に東征を任され、陝県の近郊で反乱軍を殲滅し、河陽で反乱軍を撃破するのに、いずれも殊功を立てた。宝応元年(762年)、馬璘は洛陽奪回を目指す李光弼の東征軍に従軍した。史朝義が自ら精鋭の兵を率いて北邙山で唐軍を阻み、山のような営塁を築いたため、唐の諸将もあえて動こうとしなかった。馬璘はひとり部下を率いて出撃し、反乱軍の陣中に四度突入して、反乱軍の潰走の原因を作った。太常寺卿に試用された[3][4]

宝応2年(763年)、吐蕃が西北辺境に侵入すると、馬璘は代宗の命を受けて河西の援軍に赴いた。広徳元年(同年)、僕固懐恩が叛き、吐蕃を誘って侵入させると、代宗は陝州に避難した。馬璘はその日のうちに河西から転戦して、鳳翔府にいたった。ときに吐蕃軍が鳳翔府を包囲し、鳳翔節度使の孫志直は城を閉ざして守っていた。馬璘は包囲を破って城門に突入し、救援に入った。そのまま武装を解かず、城を背にして出戦し、吐蕃軍を敗走させた。馬璘は軽騎で追擊し、数千人を捕斬した。代宗が長安に帰ると、馬璘は代宗の召見を受けて慰労され、御史中丞を兼ねた[5][4]

永泰元年(765年)、馬璘は四鎮行営節度使に任じられ、南道和蕃使を兼ねた。禁軍を委ねられ、残敵を掃討した。永泰2年(766年)、四鎮北庭行営節度使および邠寧節度使となり、御史大夫を兼ね、検校工部尚書を加えられた[5][4]大暦3年(768年)、邠州で吐蕃軍2万を撃破した[6]。四鎮北庭行営節度使のまま、権知鳳翔隴右節度副使・涇原節度使・涇州刺史を兼ね、涇州に移駐した。さらに鄭州滑州を管轄した。涇州に着任すると、堡塁を建造して、防戦の兵器を修繕し、たびたび吐蕃を撃破した。吐蕃もあえて涇州に侵入しなくなり、馬璘は検校尚書右僕射を加えられた。代宗に重んじられて、検校尚書左僕射・知尚書省事に転じ、扶風郡王に進封された[5][4]。大暦11年12月13日(777年1月26日)、死去した[7]。享年は56。司徒の位を追贈された。は武といった[5][4]

子女

  • 馬旰(光禄寺少卿・上柱国)
  • 馬晧(主客員外郎・上柱国)
  • 馬晤(河南府参軍)
  • 馬晞(太常寺奉礼郎)
  • 馬曙(弘文館明経)

脚注

  1. ^ a b 新唐書 1975, p. 4617.
  2. ^ 旧唐書 1975, p. 4065.
  3. ^ 旧唐書 1975, pp. 4065–4066.
  4. ^ a b c d e 新唐書 1975, p. 4618.
  5. ^ a b c d 旧唐書 1975, p. 4066.
  6. ^ 旧唐書 1975, p. 290.
  7. ^ 旧唐書 1975, p. 310.

伝記資料

参考文献




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