札所番号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 05:32 UTC 版)
寺伝その他の言い伝えでは空海が弘仁6年(815年)に四国霊場を開き、札所と札所番号を定めたことになっているが、これは史実ではない。四国は奈良時代から山岳信仰(後の修験道)の修行地で、空海も唐に渡る前には私度僧として修行のために故郷でもある四国で修行をしたが、唐から戻って後、特定の八十八箇寺を札所として定めたことはなく、後の人々が空海ゆかりの寺々を霊場に定めたものと推定される。実在の人物としての空海は、弘仁年間には都で密教の普及に努めていた。 江戸時代に入り庶民による霊場巡礼が盛んになると、四国を修行した僧などが案内書を出版するようになる。そのうちの一人である真念が「四国遍路道指南(しこくへんろみちしるべ)」を貞享4年(1687年)に出版した。現存する書物の中で、各寺に札所番号を記したのはこの本が最も古いとされている。当時大坂から四国へ渡るには淡路島を経由し鳴門から四国入りするルートがあり、鳴門の撫養(むや)の港に最も近い霊山寺を第1番札所としたと推測される。なお、その本の出版より34年前に巡拝した澄禅は「四国遍路日記」に、すでに当時の阿波国の中心は吉野川の北岸から南岸に移っていて、和歌山から徳島城の近くに上陸すると井戸寺がいちばん近い札所寺になっていたにもかかわらず、霊山寺から始めるのが通例であると書かれていることから、真念より以前すでに番号が付いていた可能性も否定できない。だが、真念の出版の2年後に出された真念と親交のあった寂本の「四國徧禮霊場記」には番号は記されて無くしかも善通寺から始まっている。また真念より約10年後に出された「奉納四国中遍路之日記」は霊山寺から始まりほぼ同じ順番であるが、この日記で現在と順番が違っている部分は、59国分寺 → 62一の宮 → 61香園寺 → 60横峰寺 → 64石鎚山 → 63吉祥寺 → 65三角寺と記されているが、番号は記されてない。
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