本戦までの動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/19 14:44 UTC 版)
「薩埵峠の戦い (南北朝時代)」の記事における「本戦までの動き」の解説
観応の擾乱により、北朝は足利尊氏派と足利直義派に分裂した。対立する両者は正平6年/観応2年(1351年)9月24日、興福寺(滋賀県長浜市錦織町)にて会見するも和談が成立せず、対立の色は濃くなっていた。そこで直義は桃井直常・斯波高経・山名時氏・吉良満義らをはじめ自派の武将を伴って京都を脱出し、北陸・信濃を経て鎌倉へ至る。一方尊氏は10月24日南朝に降り、直義追討の綸旨を受けた(正平一統)。 11月4日、尊氏は直義を討つため京都を発った(『太平記』)。11月23日、尊氏方の今川範氏のもとに直義方の上杉能憲が駿河に攻め入るという情報が入り、範氏は伊達景宗らを率いて陣を張った。12月11日に由比・蒲原で戦となり、今川範氏・小笠原政長らが上杉能憲勢を破り尊氏方の勝利で収まった。 尊氏は11月26日に掛川に到着、12月3日に手越宿に到着した。尊氏は12月13日に由比越で待つ今川範氏と合流すると、由比越より移動し桜野(由比越の北に位置する)に本陣を張った。『太平記』には「十一月晦日駿河薩埵山に打上り」とあるが、この記述は『駿河伊達氏文書』等より場所と日時が誤りであることが判明しており、実際は12月13日のことである。また『足利尊氏御判御教書』にも「由比山(注:浜石岳周辺のこと)に於いて陣を取り畢わんぬ」とあり、尊氏が薩埵山に本陣を置いたり同山にて交戦したということは無かった。
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