朝陽寺事件とは? わかりやすく解説

朝陽寺事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/05 02:50 UTC 版)

塘沽協定」の記事における「朝陽寺事件」の解説

1932年7月17日関東軍嘱託石本四郎熱河省朝陽寺で拉致される事件発生したため(朝陽寺事件)、第8師団石本奪還するため翌日同地赴いた関東軍では同事件をきっかけに、内地からの増援を受け、熱河省軍事制圧検討していたが、眞崎甚三郎参謀次長からは「性急な行動は慎むよう」指示された。事件対し中華民国外交部矢野真臨時代理公使に対して匪賊による列車強盗対しわが軍治安出動していたところ、日本軍より攻撃受けた」として抗議行ったが、日本側は「治安維持のための出動であり、日本軍威嚇射撃などを行った中国側非がある」と反論した日本側の報道によると石本は張瑞光率いられた約300名の匪賊襲撃され不思議なことにその場からただ一人拉致されていた。拉致実行者たちが遺棄し書類から彼等7月16日張学良からの「石本等が熱河省朝陽において活動しつつあるから彼を捕縛せよ」との命令受けて行動したことが判明した7月19日には熱河政府代表日本要求受け入れ石本救出努力する事と今後問題起こさない事を約束したが、8月23日南京政府軍事委員会は北平分会に「日本軍よりの石本引渡し要求拒絶すべし」と電命した。石本熱河省におけるアヘン問題について熱河当局交渉行っており、日本側は「アヘンからの収入を失うことを恐れた張学良が朝陽寺事件を起こした」と判断した石本は翌1933年3月18日朝陽東方4km地点遺体となって発見され検死結果1932年12月20日匪賊によって殺害されたことが判明した遺体発見1週間後3月25日には石本陸軍が行われた。 朝陽寺事件が長期化する一方で蔣介石張学良対し熱河進軍し湯玉麟中国側引き戻すよう圧力をかけることを要請していた。張学良中央政府との対立発生させながら、10月に入ると、中国軍熱河集結開始した。さらに日本側も12月第6師団増派得て熱河作戦実施迫りつつあった。蔣介石12月25日、さらに中央軍6個師団増派進めていることを張学良知らせている。

※この「朝陽寺事件」の解説は、「塘沽協定」の解説の一部です。
「朝陽寺事件」を含む「塘沽協定」の記事については、「塘沽協定」の概要を参照ください。

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