朝陽寺事件
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1932年7月17日、関東軍嘱託の石本権四郎が熱河省内朝陽寺で拉致される事件が発生したため(朝陽寺事件)、第8師団は石本を奪還するため翌日同地に赴いた。関東軍では同事件をきっかけに、内地からの増援を受け、熱河省の軍事制圧を検討していたが、眞崎甚三郎参謀次長からは「性急な行動は慎むよう」指示された。事件に対し、中華民国外交部は矢野真臨時代理公使に対して「匪賊による列車強盗に対しわが軍が治安出動していたところ、日本軍より攻撃を受けた」として抗議を行ったが、日本側は「治安維持のための出動であり、日本軍に威嚇射撃などを行った中国側に非がある」と反論した。 日本側の報道によると石本は張瑞光に率いられた約300名の匪賊に襲撃され、不思議なことにその場からただ一人拉致されていた。拉致実行者たちが遺棄した書類から彼等が7月16日に張学良からの「石本等が熱河省内朝陽において活動しつつあるから彼を捕縛せよ」との命令を受けて行動したことが判明した。7月19日には熱河政府代表が日本の要求を受け入れ、石本の救出に努力する事と今後は問題を起こさない事を約束したが、8月23日南京政府軍事委員会は北平分会に「日本軍よりの石本引渡し要求を拒絶すべし」と電命した。石本は熱河省におけるアヘン問題について熱河当局と交渉を行っており、日本側は「アヘンからの収入を失うことを恐れた張学良が朝陽寺事件を起こした」と判断した。 石本は翌1933年3月18日に朝陽東方4kmの地点で遺体となって発見され、検死の結果1932年12月20日頃匪賊によって殺害されたことが判明した。遺体発見1週間後の3月25日には石本の陸軍葬が行われた。 朝陽寺事件が長期化する一方で、蔣介石は張学良に対し熱河に進軍し、湯玉麟を中国側に引き戻すよう圧力をかけることを要請していた。張学良と中央政府との対立を発生させながら、10月に入ると、中国軍が熱河へ集結を開始した。さらに日本側も12月に第6師団の増派を得て、熱河作戦の実施が迫りつつあった。蔣介石は12月25日、さらに中央軍6個師団の増派を進めていることを張学良に知らせている。
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