朝秀の勲功を利用する子孫たちとは? わかりやすく解説

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朝秀の勲功を利用する子孫たち

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/06 01:32 UTC 版)

羽地朝秀」の記事における「朝秀の勲功を利用する子孫たち」の解説

七代目羽地朝興が乾隆21年1756年2月隠居し八代目羽地朝季が家督相続する際に、先祖勲功有する家はそれを報告するように王府から仰せつけられた。朝秀の勲功により一時1000石あった石高も、代を経るにつれ400石、300石、150石と減少していった。朝季は、もし今回報告をしなかったならばさらに石高減らされてしまうという次第を朝興に話した。朝興は、朝秀が国中仕置して政道根元定めたのは皆が知っている事であるから、このことを報告すればこれ以上石高減らされずに済むのではないか考えたそのこと親戚一門相談したところ、当時政権担っていた蔡温請願しても無駄ではないかという意見出た。しかし、当時蔡温推し進めていた中国的な政治やり方も、朝秀が定めた政道根元取り除いて成り立たつものではないという意見から、朝季の考え通り朝秀の由緒について報告することになったのである由緒報告時点ですでに蔡温隠居の身であったが、蔡温息子である蔡翼が当時国王の側仕えをしていたということもあり、蔡温・蔡翼の両人羽地家の由緒報告することとなった。 朝秀の功績をよく知っていた蔡温は、これだけ功績残した人物の一門石高減少するのはどうなのということ思った。そこで、摂政三司官の宅に赴き口頭でこの話を伝えたところ50石の加増認められ、この時の羽地家の総知行高は計200となった{。 ところが、朝季の家督相続羽地家の総知行高200石と認められ矢先、朝季が病に倒れ隠居せねばならなくなった。そこで九代目羽地朝英が家督を継ぐこととなったが、知行高減少恐れ家督相続直前に朝季が総石高200石を認められたことを王府再度申請、朝英自身も総石高200石をそのまま認められることとなったこのように2代続けて石高加増や総知行高維持成功した子孫たちであったが、十代目羽地朝美家督相続の際、朝興・朝季・朝英たちと同様に知行高維持王府願い出た聞き入れられず、朝興の頃と同様の150石に総知行高が戻ることとなった

※この「朝秀の勲功を利用する子孫たち」の解説は、「羽地朝秀」の解説の一部です。
「朝秀の勲功を利用する子孫たち」を含む「羽地朝秀」の記事については、「羽地朝秀」の概要を参照ください。

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