朝秀の勲功を利用する子孫たち
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「羽地朝秀」の記事における「朝秀の勲功を利用する子孫たち」の解説
七代目羽地朝興が乾隆21年(1756年)2月に隠居し、八代目羽地朝季が家督を相続する際に、先祖の勲功を有する家はそれを報告するように王府から仰せつけられた。朝秀の勲功により一時は1000石あった石高も、代を経るにつれ400石、300石、150石と減少していった。朝季は、もし今回も報告をしなかったならばさらに石高を減らされてしまうという次第を朝興に話した。朝興は、朝秀が国中を仕置して政道の根元を定めたのは皆が知っている事実であるから、このことを報告すればこれ以上石高を減らされずに済むのではないかと考えた。 そのことを親戚一門に相談したところ、当時政権を担っていた蔡温に請願しても無駄ではないかという意見が出た。しかし、当時蔡温が推し進めていた中国的な政治のやり方も、朝秀が定めた政道の根元を取り除いては成り立たつものではないという意見から、朝季の考え通り朝秀の由緒について報告することになったのである。 由緒報告の時点ですでに蔡温は隠居の身であったが、蔡温の息子である蔡翼が当時国王の側仕えをしていたということもあり、蔡温・蔡翼の両人に羽地家の由緒を報告することとなった。 朝秀の功績をよく知っていた蔡温は、これだけの功績を残した人物の一門の石高が減少するのはどうなのかということを思った。そこで、摂政・三司官の宅に赴き口頭でこの話を伝えたところ50石の加増が認められ、この時の羽地家の総知行高は計200石となった{。 ところが、朝季の家督相続と羽地家の総知行高が200石と認められた矢先、朝季が病に倒れ隠居せねばならなくなった。そこで九代目の羽地朝英が家督を継ぐこととなったが、知行高の減少を恐れ、家督相続の直前に朝季が総石高200石を認められたことを王府に再度申請、朝英自身も総石高200石をそのまま認められることとなった。 このように2代続けての石高加増や総知行高の維持に成功した子孫たちであったが、十代目羽地朝美が家督相続の際、朝興・朝季・朝英たちと同様に総知行高維持を王府に願い出たが聞き入れられず、朝興の頃と同様の150石に総知行高が戻ることとなった。
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