曲線救国から人民解放軍へ
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1943年(民国32年)1月18日、呉化文は汪兆銘政権への参加を表明する。なお、この呉の投降は、国民政府農林部長沈鴻烈(かつての呉の上官)の指示によるもので、しかも蒋介石の黙認も得たものであったとされる(いわゆる「曲線救国」)。軍は山東方面軍に改組され、呉がそのまま総司令に留まった。7月、山東方面軍は和平建国軍第3方面軍に改組され、そのまま呉が上将総司令の職をつとめている。1945年(民国34年)1月、軍事委員会委員に任ぜられた。 日中戦争終結後、呉化文は再び蒋介石の配下に戻る。和平建国軍第3方面軍は国民革命軍第5路軍に改組され、呉がやはり総司令をつとめ、さらに津浦鉄路南段警備司令も兼ねた。1946年(民国34年)、山東保安第2縦隊司令に任ぜられる。翌年2月には部隊が整編第84師に改組され、そのまま師長をつとめる。1948年(民国37年)、整編第96軍軍長兼済南西守備区指揮官となった。 同年9月、中国共産党からの働きかけに応じる形で、呉化文は3個旅2万人を率い、済南で中国共産党への帰順を宣言(起義)した。翌月、中国人民解放軍第35軍軍長に任ぜられ、12月には淮海戦役に参加、南京を占領している。中華人民共和国建国後、呉は病気を理由に軍人から引退し、政治家に転じた。1951年、浙江省人民政府委員兼交通庁庁長に任ぜられている。また、中国人民政治協商会議全国委員会委員、浙江省政治協商会議副主席もつとめた。建国前の軍功から、一級解放勲章も授与されている。 1962年4月、病没。享年59。呉の死去にあたり、周恩来、陳毅及び8大軍区から献花がなされている。
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