智顗の解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/06 05:31 UTC 版)
天台宗の智顗が登場すると、この五味を五時八教の教相判釈に配当し、仏の真意は既に法華経で明かされた、として涅槃経はその法華経の会座に漏れた機根の低い者のために同じことを再度説いただけ、として法華経が優れている事を強調した。それによって涅槃宗は単なる学派化していたこともあり、智顗の教学面と実践力という両面にかなわず、天台宗に併合されてしまった。ただし、これは、単に宗派としての存亡についてのみ、論じるのではなく、その内容によって、論じるべきであるという考えもある。 また、一方、しかしあくまでも、涅槃経におけるこの譬喩(たとえ)は、本来はあらゆる大乗経典の中で涅槃経が最も後であり優れたものである、ということを説いたものであると強く主張し、智顗の聡明なる閃きは素晴らしいものがあるも、法華優位の立場から涅槃経を判じるその解釈については、やや牽強付会(けんきょうふかい)であった、という指摘が仏教学者の一部においても提示されている。ただし、その「牽強付会」は、結果としては、その当時の潮流であった、涅槃宗の衰退(智顗の出現以前はほとんど衰退の極にあったという指摘がある)を智顗の説によって、捃拾教として、摂し入れ、涅槃経(大乗)そのものの、過激的思想(謗法者の殺害、法華経よりも過激な排他的記述)があるものの、文字通り、落ち穂拾いとしての経として、仏教をすべての衆生の救いをめざすものとする「だめ押し」としての経文に高めたとも言える。
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