明治神宮例大祭
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明治神宮には明治節当日に多数の民衆が参拝して後を絶たなかった。明治神宮では明治節に例大祭が行われ、勅使が参向して奉幣した。明治神宮の例祭式は特に省令で定められていた。例祭の祝詞は次のようであった。 掛(かけ)まくも畏(かしこ)き明治神宮の大前(おほまへ)に、宮司〔位勲功爵氏名〕恐(かしこ)み恐(かしこ)みも白(まを)さく。高天原(たかまのはら)に神留(かむづま)り坐(ま)す神(かむ)漏(ろ)岐(ぎ)・神(かむ)漏(ろ)美(みの)命以(みことも)ちて、天社(あまつやしろ)・国社(くにつやしろ)と称辞(たたへごと)竟(をへ)奉(まつ)る中(なか)に、此(こ)の大宮(おほみや)を静宮(しづみや)の常宮(とこみや)と鎮(しづまり)坐(ま)す大神(おほかみ)の、広(ひろ)き厚(あつ)き恩頼(みたまのふゆ)を尊(たふとみ)奉(まつ)り仰(あふぎ)奉(まつ)りて、一年(ひととせ)に一回(ひとたび)仕(つかへ)奉(まつ)る常(つね)の例(ためし)の今日(けふ)の御祭(みまつり)に〔官位勲功爵氏名〕を御使(みつかひ)と為(し)て、天皇命(すめらみこと)の宇豆(うず)の大幣帛(おほみてぐら)を捧(ささげ)奉(まつ)り齋(いはひ)祭(まつ)らひ給(たま)ふが故(ゆゑ)に、大前(おほまへ)に齋(ゆ)まはり清(きよ)まはりて献(たて)奉(まつ)る御食(みけ)・御酒(みき)・種種(くさぐさ)の物(もの)を平(たいら)けく安(やすら)けく聞食(きこしめ)して、天皇命(すめらみこと)の大(おほ)御代(みよ)を厳(いかし)御代(みよ)の、足(たらし)御代(みよ)と堅磐(かきは)に常磐(ときは)に齋(いはひ)奉(まつ)り、手長(てなが)の御代(みよ)と幸(さきはへ)奉(まつ)り給(たま)ひ、親王(みこ)等(たち)・諸王(おほきみ)等(たち)を始(はじ)めて、食国(をすくに)・天(あめ)の下(した)の国民(おほみたから)に至(いた)るまで、長(なが)く平(たいら)けく守(まもり)給(たま)ひ恵(めぐみ)給(たま)へと、恐(かしこ)み恐(かしこ)みも称辞(たたへごと)竟(をへ)奉(まつ)らくと白(まを)す — 内務省令、明治神宮例祭式 祝詞 明治神宮例大祭の様子については1937年を例にとると次のようであった。この年の明治節は数年ぶりの雨だった。明治神宮では朝4時過ぎに早くも門を開き、午前8時30分、勅使の参進とともに拝殿において例祭式を執り行った。内閣総理大臣以下各閣僚、枢密院議長などが参列し、宮司権宮司以下神官が奉仕して祭典を終えた。11時より明治節祭を執り行い12時過ぎに終了した。午後1時からは皇族が参拝した。毎年恒例の明治神宮献詠歌は皇族9名の御歌のほか7500首を超えた。これら献詠歌は明治節当日に奉奠した。披講式は11日午後1時より大前にて行った。 年によっては明治節を中心に明治神宮国民体育大会を開催した。これは戦後の国民体育大会に受け継がれる。
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