明治用水の導入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/11 06:52 UTC 版)
幕末には碧海郡和泉村(現在の安城市和泉町)の豪農である都築弥厚が用水の導入による新田開発を企てるが、既存の権益に固執する農民の妨害などに遭って失敗。幕府から一部の開発許可を得ていたものの、都築は膨大な借金を背負ったまま失意のうちに亡くなった。明治維新後には岡本兵松が都築の計画を引き継ぎ、別の方法で新田開発を計画していた伊予田与八郎も合流して、愛知県も関与した用水導入の計画を進めた。1879年(明治12年)に着工し、1884年(明治17年)に明治用水が完成した。 明治用水の導入で新田開発が進み、新たに8,800町歩の水田が開発されたほか、4,500町歩の水田が改良され、この台地の農業は目覚ましく発展した。碧海台地では水田稲作を核として、養鶏・養蚕・野菜栽培などの農業も行われるようになった。多角化された農業を農業先進国のデンマークになぞらえ、碧海台地または安城市は「日本デンマーク」と呼ばれている。
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