旧町名の概要
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上鶴間町(かみつるままち) 寺社門前地。明治4年に天徳院門前が改称。明治12年、山崎領の一部を編入。昭和35年10月、一部が菫町となる。昭和39年4月、小立野2-5丁目・石引1-2丁目及び宝町の一部となる。 下鶴間町(しもつるままち) 寺社門前地。明治4年に経王寺前・経王寺横町と経王寺門前の一部を併せて成立。明治12年、上野新村の一部を編入。昭和39年4月、小立野5丁目・石引1丁目及び宝町の一部となる。 元鶴間町(もとつるままち) 寺社門前地。明治初年に天徳院門前の一部から起立 。明治12年、上野新村の一部を編入。昭和39年4月、小立野5丁目及び宝町の一部となる。 上弓ノ町(かみゆみのまち) 武家地。天和元年(1681年)から足軽弓組の組地となった。明治5年、如来寺組地に町名が付される。明治12年、上野新村の一部を編入。昭和39年4月、小立野2、5丁目の一部となる。旧町域は金沢商業高校から如来寺一帯にあたる。 中弓ノ町(なかゆみのまち) 武家地。天和元年(1681年)から足軽弓組の組地となった。明治5年、経王寺組地に町名が付される。昭和39年4月、小立野5丁目の一部となる。旧町域の北部は金沢大学鶴間キャンパスの敷地となっている。 下弓ノ町(しもゆみのまち) 武家地。天和元年(1681年)から足軽弓組の組地となった。明治5年、横山同心組地に町名が付される。昭和39年4月、小立野5丁目の一部となる。旧町域の大部分は金沢大学鶴間キャンパスの敷地となっている。 小立野新町(こだつのしんまち) 地子町。明治4年に小立野上新町と小立野下新町の一部を併せて成立。明治12年、上野新村の一部を編入。昭和39年1月、一部が小立野3丁目となる。同年4月、小立野3-4丁目及び石引2丁目の一部となる。旧町域は石引往還の両側にあたる。 松下町(まつしたまち) 武家地。明治2年、横山蔵人家中屋敷地に町名が付される。明治12年、上野新村の一部を編入。昭和39年4月、小立野3丁目の一部となる。旧町域は現在の小立野3丁目13、14、18街区周辺。 上野町(うえのまち) 地子町。もと石川郡上野村の村地であったが、貞享4年(1687年)に相対請地となり町立される。文政4年(1821年)2月に町奉行支配となり、町名が付された。明治4年、宝幢寺門前と天徳院裏門前の一部を編入。明治12年、上野新村の一部を編入。昭和39年4月、小立野3丁目の一部となる。旧町域は石引往還の両側にあたる。 菫町(すみれまち) 上野本町第一土地区画整理事業施行地。昭和35年成立。昭和39年4月、小立野2丁目の一部となる。 森丘町(もりおかまち) 上野本町第二・四土地区画整理事業施行地。昭和35年成立、昭和36年拡大。昭和39年4月、小立野1-2丁目の一部となる。 小立野台町(こだつのだいまち) 上野本町第三土地区画整理事業施行地。昭和36年成立。昭和39年4月、小立野1丁目の一部となる。 (旧)小立野三丁目(こだつのさんちょうめ) 笠舞第四土地区画整理事業施行地の一部。笠舞町の区画整理地区のうち、後に小立野3丁目として住居表示されることが内定していた地区。昭和39年1月成立。同年4月、(新)小立野3丁目の一部となる。
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旧町名の概要
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上・下笠舞町(かみ・しもかさまいまち) 地子町 揚地町(あげちまち) 地子町 一本松(いっぽんまつ) 地子町 長谷川町(はせがわまち) 旧加賀国石川郡石浦荘山崎領、同郡崎浦村字山崎地方(やまざきじがた)。山崎領は現在の金沢市中心部にあった山崎村の一部。山崎村はかつて大村だったが、金沢城下の市街地化によってほとんどが町地となり、わずかに残った耕地が山崎領と呼ばれるようになった。崎浦村の金沢市編入に際して長谷川町と改称した。 笠舞新町(かさまいしんまち) 笠舞第一土地区画整理事業施行地。 (旧)笠舞一丁目・二丁目(かさまいいっちょうめ・にちょうめ) 笠舞第四土地区画整理事業施行地の一部。笠舞町の区画整理地区のうち、後に笠舞1・2丁目として住居表示されることが内定していた地区。昭和39年1月成立。同年4月、(新)笠舞1・2丁目の一部となる。
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