旧・尾車部屋
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1877年(明治10年)6月場所限りで引退した玉垣部屋所属の元幕内・勝山が年寄・尾車を襲名して尾車部屋を創設した。勝山(2代尾車文五郎)は、鳥取市湖山町新田の小松家の次男として天保12年(1841年)に生まれ、16歳で上京して玉垣部屋に入門、四股名「勝山芳蔵」として明治3年(1870年)西幕下十両、翌年入幕、最高位前頭5枚目まで進み、明治10年(1877年)に引退した。明治の横綱・大砲や大関・荒岩を育てた親方として名高く、明治31年(1898年)の3回忌には、三代目尾車文五郎(元大戸平廣吉)らにより、故郷に碑が建立された。また、三代目尾車は「国技館」の命名者としても知られる。 明治から大正初期にかけては大きな部屋だったものの、1916年に3代目の親方が亡くなったあとに部屋の後継者を巡る争いが起き、関脇・三杦磯たちの一派が離れた後は部屋は衰退した。その後4代目が1921年に二枚鑑札で部屋を再興し、幕内・白岩を擁して部屋は続いたものの、1940年(昭和15年)5月限りで部屋は閉鎖された。
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