日本語圏でのマコーリー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 03:43 UTC 版)
「トーマス・マコーリー」の記事における「日本語圏でのマコーリー」の解説
「ホイッグ史観#日本への影響」も参照 日本語圏へのマコーリーそれ自体の影響はきわめて限定的である。明治時代の日本は改革すべき問題が山積していたが、何をどのように変革するかを考える必要があった。同じ島国でありながら植民地帝国を築いたイギリスは、あらゆる改革を達成した国とされ、最もふさわしい事例と思われた。科学技術ではなく政治や歴史を学ぶべきとしたのは福沢諭吉らであり、イギリス史への関心は知識層の間で高まっていた。当時イギリス史の日本語訳は毎年のように出版されたものの、マコーリー『イングランド史』の訳は出なかった。当時出版された歴史書は玉石混淆で、いまでは大方忘れ去られたような歴史書が翻訳されていたり、本国イギリスで反響の大きかったものや後に名を残す歴史書が見過ごされていたりしている。マコーリーの影響は竹越与三郎の登場を待たねばならない。 竹越が1893年に発表した『マコウレー』この伝記は、当時出版されて日の浅いトレヴェリアンの伝記を参照しているとされる。竹越は「十分の同情はその美を知るに足り、十分の冷静はその欠点を知るに足ると信ずるが故也」と冷静な判断をすると断りつつも「英人中の英人也。紳士中の紳士也」など各所で筆を尽くして評価するいっぽう、短所は一カ所「(マコーリーとバークを比べると、マコーリーは)哲学的の深奥を欠く」とあるのみである。 竹越のマコーリー評は一定の読者を得、竹越も「日本のマコウレー」と言われるようになったが、あとに続く者が出なかった。第2次世界大戦後の復興期の日本において影響がみられるとすれば、それはマコーリーという人ではなくホイッグ史観である。大戦で焦土となった日本にくらべ、イギリスは成功した近代化の典型とされた。世界で最初に市民革命を経験した最先端の存在であり、おおいに参照されたのである。同時代のイギリスを称賛するホイッグ史観は、日本人のイギリスのイメージに適い、またそれを補強するものであった。
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