日本語圏におけるゲーム理論研究の興隆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 17:01 UTC 版)
「ゲーム理論」の記事における「日本語圏におけるゲーム理論研究の興隆」の解説
東京大学や京都大学を中心とする日本国内の多くの大学の経済学部では戦後長らくマルクス経済学の研究・教育が積極的になされていたが、(1)高度成長を経験し資本主義に対する肯定的評価が普及した、(2)マルクス経済学内部で宇野派と非宇野派の対立が顕在化した、(3)非マルクス経済学の分野で森嶋通夫など国際的に活躍する日本人経済学者が現れた、(4)ソ連や東欧などの共産主義諸国が崩壊し多くのマルクス経済学者は「マルクス経済学」の看板を下ろし学生もマルクス経済学を敬遠した、(5)米国でPh.D.を取得した優秀な非マルクス経済学者たちが帰国した、等の理由から、東京大学経済学部では1980年代にはマルクス経済学の勢力が弱まり、近代経済学(非マルクス経済学)が主流となり、近代経済学としてゲーム理論が教育・研究されるようになった。 1988年秋には、京都大学で開催された理論計量経済学会(現在の日本経済学会の前身)研究大会において「情報の経済学とゲーム理論」というタイトルの研究セッションが開かれた。これが「ゲーム理論」という名がついた最初の研究セッションであったと言われている。1960年代より東京工業大学内部で細々とゲーム理論の普及活動に努めていた鈴木光男は、病床でこのセッションについて聞かされ、当時プログラム委員であった酒井泰弘に対して「生きていて良かったね」と語ったという。
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