日本人の引揚げと留用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 02:39 UTC 版)
「延吉捕虜収容所」の記事における「日本人の引揚げと留用」の解説
ソ連軍による抑留を免れた捕虜および民間の日本人は、1946年8月から9月にかけて、主に遼寧省の葫蘆島を経由して日本へ帰国した。ただ、医療関係者や特殊技術者は、国共内戦を戦う中共軍に長く留用された。 1945年9月 延吉で日本人居留民会が成立する。 1946年2月末 延安から日本人工作員が到着。 1946年8月13日 国民政府中央軍と八路軍の間で日本人遣送協定が成立。 1946年8月10日 吉林から退却してきた患者用列車が明月溝駅(安図)で事故を起こし、貨車内にいた日本人の医者・看護婦18名が死亡。8月20日、日本人を慰霊する「日本人十八烈士慰霊祭」が愛国館で盛大に挙行される。 1946年8月15日 延吉から日本人帰国第1団が出発。 1946年8月中旬、残留する日本人の医者や看護婦の士気を高めるため、慰安演芸大会を愛国館で開催。日本の看護婦一同が中国語で「東方明」を、八路軍の看護婦一同が日本語で「白百合」を合唱、中国の詩吟や踊りを披露。 1946年8月31日、琿春地区の日本人に対して、9月2日に琿春を発ち帰国するよう命令が下る。9月5日、延辺地区で最後の日本人帰国団が延吉を出発。 1949年7月 延辺大学が開校。農業専科ら多くの日本人が教師を務める。
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