日本のスペンサー銃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 01:18 UTC 版)
南北戦争後、アメリカで余剰となったスペンサー銃、スペンサー騎兵銃が、幕末の日本に輸入された。当時の日本では英語の「スペンサー・カービン」よりも、蘭語読みの「スペンセル・カーバイン」と呼称される方が多い。総督府の発注で慶応4年(1868年)に大村益次郎が横浜で入手した際の価格は一挺37ドル80セントと記録されており、当時の官軍主力銃であったスナイドル銃の価格(一挺9ドル30セント)に比べると四倍近くも高価であった。 幕府歩兵隊(後の大鳥圭介配下含む)と主に佐賀藩・黒羽藩が購入して装備し、戊辰戦争で使用したが、高価さに加えて専用弾薬の入手難易度が高い(内製化されておらず、全て輸入に頼っていた)ため、弾薬補給の観点から他の輸入銃に比べて数は多くはない。この他に、郡上藩の凌霜隊(同藩の佐幕派から成る諸隊の一つ)も装備していたとみられ、少数とはいえ討幕・佐幕双方で使用していたといわれる。 会津藩士の山本覚馬は長崎でスペンサー騎兵銃を購入し、会津に居た妹の八重に送った。彼女が戊辰戦争の会津若松城籠城戦で城に入り、この銃で奮戦したエピソードが知られている。当時薩摩軍で分隊長だった大山厳に狙撃で重傷を負わせたのも八重だったと言われる[要出典]。『八重の桜』で八重を演じた綾瀬はるかは、戦闘のシーンで、実物と同じおよそ5キログラムある戸井田工業のステージガンを抱えて走り回る必要上、腕立て伏せをして腕力を鍛え撮影に臨んだという[要出典]。 西南戦争後の1878年当時、近衛砲兵大隊ではスペンサー銃が主力小銃となっていたが、銃剣装備が不可能であったため同年の竹橋事件ではスナイドル銃のほうが良いと言われたという。
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