日本における綿襖甲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/16 09:02 UTC 版)
日本では古墳時代以来の挂甲や短甲が奈良時代まで生産されていたが、生産数は少なく諸国で年に各数領しか生産されていなかった。 天平宝字3年(759年)に第13次遣唐使が綿襖甲を持ち帰り、それを参考にして「唐国新様」として天平宝字6年(762年)正月に、東海道、西海道、南海道、各節度使の使料として各20250領を生産する事を大宰府に命じた。更に同年2月には1000領を作って鎮国衛府に貯蔵する事を命じている。また、宝亀11年3月(780年)に勃発した宝亀の乱の際には征東軍に対して、5月に甲600領が支給され、7月に要請に応じて甲1000領と襖4000領が支給された。この場合の甲とは鉄甲(挂甲や短甲)を指し、襖は綿襖甲を指すと思われる。 その直後の8月には、「今後諸国で製造する甲冑は鉄ではなく革で作るように」という勅があり、この時点で綿襖甲の生産も停止された可能性があるが、延暦6年(787年)の記録に「蝦夷に横流しされた綿で敵が綿冑を作っている」という記述もあり、綿襖甲が日本で作られなくなった時期は判明していない。
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