日中覚書貿易事務所代表・経済協会顧問
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「岡崎嘉平太」の記事における「日中覚書貿易事務所代表・経済協会顧問」の解説
1962年日中貿易交渉の副団長として訪中した際、周恩来は岡崎一行に対し次のように述べ、岡崎はその言葉に感銘を受けたと後に語っている。 「日清戦争以来、日本は我が国を侵略し人民を傷つけ苦しめてきました。我々は深い恨みがあります。しかし、中国と日本の間には2000年に渡る友好の歴史があります。戦争による不幸な歴史はわずか数十年に過ぎません。我々は日本に恨みを持っていますが、それを忘れようと努力をしています。これからは日中が力を合わせてアジアを良くして行こうではありませんか。」 1968年以降は日中覚書貿易事務所代表として訪中を重ねながら、政界の古井喜実、田川誠一らとともに日中貿易冬の時代を乗り切り日中国交正常化に尽力する。周恩来首相とも親睦を深め「兄(岡崎が1歳年上)、弟」と呼び合うほどの信頼関係を築いたという。これがきっかけで岡崎の描いていた民間レベルでの貿易構想は「日中総合貿易に関する覚書(LT貿易)」という形で現実化することとなった。しかし当時は風当たりも強く右翼団体が自宅を囲んだりし警察が自宅に泊まり込むほどだった。 日中国交正常化の際には、田中角栄総理が中国を訪問する2日前、周恩来は岡崎をもてなすために、食事会を開いた。「中国には『水を飲むときには、その井戸を掘ってくれた人を忘れない』という言葉があります」「まもなく田中総理は中国に来られ、国交は正常化します。しかしその井戸を掘ったのは岡崎さん、あなたです.」と言ったという。その後も日中経済協会常任顧問として日中貿易利権に携わり、生涯訪中回数は101回に達した。1973年未踏加工技術協会初代理事長。
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