日中戦争開戦と神戸寄港をめぐる動き
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「日華連絡船」の記事における「日中戦争開戦と神戸寄港をめぐる動き」の解説
1937年(昭和12年)、日中戦争が始まると、日本と上海を往来する日本人が大幅に増加した。日華連絡船も上海から日本に引き上げる避難民(11,892人)の輸送で、同年度の上海~長崎の乗客数は前年度から約1万人増加するなど輸送状況が逼迫した。このため、開戦翌年の1938年(昭和13年)には航路の起点が長崎港に変更され、長崎~神戸の運行は取りやめとなった。日本郵船としては日中間の輸送状況が一段落した頃に神戸寄港を再開する予定であり、同年の5月にその旨を発表した。この動きに対し、長崎商工会議所の関係機関「大長崎振興会」は「神戸寄港再開によって寄港地である長崎と九州各県企業の大陸進出における既得権益が失われる」という名目で猛反発した。同会は県や佐世保市、商工会議所と結託し、九州各県へ神戸寄港再開見直しへと同意するよう求めた。6月初めには逓信省や日本郵船、更には上海居留団や陸軍運輸部に対しても寄港再開見直しへ同意するよう圧力をかけ、日本郵船は最終的に神戸寄港再開を断念した。 国際航路の性格上、戦争激化とともに乗客へも厳しい目が向けられるようになっていた。船には「不逞分子発見」を目的に特高警察と警察外事課の隊員が乗り込み、航海中に査証確認が行われた。特高警察「上海航路警乗記」によると、乗客の中には上陸禁止措置を受けた者や密輸で摘発を受けた者、中には国際的なスパイとして逮捕される者も存在した。この頃になると、切符購入の際に警察発行の顔写真付き身分証明書と、伝染病予防の証明書が必要となっており、以前のような「気軽に上海へ」という空気は失われていた。
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